石川知福『随想』(東京:労働科学研究会、1951)
石川知福(いしかわ・ともよし)は、暉峻義等らと並ぶ、日本の労働科学・産業衛生学の開拓者の一人である。愛媛県で生まれ、松山中学校・鹿児島の第七高等学校を経て東大医学部の生理学を学ぶ。勤務は倉敷労働科学研究所、公衆衛生院、厚生科学研究所、戦後の東大医学部など。留学はハーヴァードの公衆衛生学校。労働の科学と労働者の健康研究にはじまり、戦時下の国民体力増進の政策に関わった。
この『随想』は、石川自身が若いころにつけていたノートから抜粋し、家人に託してまとめたものである。労働科学、国民厚生、戦争と終戦という、さまざまな意味で新しい課題に直面しながら生きてきた一人の学者の素直な思いがつづられている優れた書物である。労働科学・産業衛生学が科学性を追求すると同時に、それが労働者のためになるものであることを両立させなければならないという信念は、倉敷時代から戦中を経て戦後まで貫かれている。
石川知福(いしかわ・ともよし)は、暉峻義等らと並ぶ、日本の労働科学・産業衛生学の開拓者の一人である。愛媛県で生まれ、松山中学校・鹿児島の第七高等学校を経て東大医学部の生理学を学ぶ。勤務は倉敷労働科学研究所、公衆衛生院、厚生科学研究所、戦後の東大医学部など。留学はハーヴァードの公衆衛生学校。労働の科学と労働者の健康研究にはじまり、戦時下の国民体力増進の政策に関わった。
この『随想』は、石川自身が若いころにつけていたノートから抜粋し、家人に託してまとめたものである。労働科学、国民厚生、戦争と終戦という、さまざまな意味で新しい課題に直面しながら生きてきた一人の学者の素直な思いがつづられている優れた書物である。労働科学・産業衛生学が科学性を追求すると同時に、それが労働者のためになるものであることを両立させなければならないという信念は、倉敷時代から戦中を経て戦後まで貫かれている。
「終戦後に人々の戦争回顧の言葉を聞いていると、大部分の人が戦争犯罪人たることをさけるがための弁解の言葉である。日本が大戦に負けるであろうと予言したとか考えていたとか、協力しなかったとかなどということを聞くのは自分には厭である。(中略)大戦中になしてきた自分の行動をかくしたり弁解したりなどしないで、ありのままの行跡を正直に批判を受ける態度であることが科学者としての正しい態度であると自分は信じている」
この言葉は誰かのことを指した言葉だろうか。