戦前日本における精神分析への批判

フロイトはアメリカを一度訪れたことがあるが、当時のドイツの大学教授やインテリの常として、アメリカを激しく軽蔑してそれを憎んでいた。しかし、フロイトの精神分析学が移植されてのちに世界の精神分析の牙城になったのがアメリカであるのは、歴史の皮肉の一例である。アメリカに精神分析をもたらした重要人物に、ホプキンスで教えたアドルフ・マイヤーがいるが、マイヤーのもとで精神分析を学んだのが丸井清泰で、彼は1919年から仙台の東北帝国大学の医学部精神科の教授となり、日本の医学界に精神分析を根付かせるのにおそらく大きな力があった。しかし、丸井が教えたのが東北の仙台であったことを考えると、これもミスマッチな場所の選択だった。精神分析は、もともとは世紀末ウィーンで生まれたものであり、コスモポリタンで爛熟した文化を背景にした新しい力がみなぎる街の富裕な階層の神経症との接触が重要であった。大正末から昭和戦前期にかけての仙台を蔑ろにするつもりは毛頭ないが、同時代の東京や大阪とは異なり、世紀末ウィーンとの距離は大きいように思う。仙台から一歩でると、その周りには精神病院もろくに存在せず、それ以上に、神経症に対して医者の治療を求める中産階級も希薄にしか存在しなかった。患者は神経症というより憑依性の精神病にかかりそうな状況だっただろうと想像している。この異質な環境でどう精神分析が行われたかというのは、それはそれで重要なテーマだと思う。

それと関係あるのかどうかは分からないが、丸井は神経症や気質の問題について、他の学者たちに果敢に論戦を挑む傾向があった。これらは当時の日本の精神医学界の各所に生じていた渦巻きが接触しては各々の形を鮮明に伝えれてくれる、面白いと同時に歴史学者にとって重要な記事になっている。その一つが、丸井が下田の躁鬱病病前性格論に対して行った批判について、下田が答えたものである。それぞれ、精神神経学雑誌の44巻6号(1940)、45巻3号(1941)に掲載されている。下田が執着気質が躁鬱病病前性格で主張したのに対し、丸井はアンビバレンツ、アンビテンデンツが重要だと思うが如何という問いを発した。それに対する答えの中で、下田がこう書いている箇所がある。「何れにしても、Ambivalenz, Ambitendenz なる語は、一定の精神状態を形容するに好都合な表現であるに過ぎず、その疾病の発生を説明する語ではないように私は思っているが、丸井教授は Ambivalenz をもって躁鬱病の Pathogenese を如何に説明しておられるのだろうか」

これは、下田 vs 精神分析という構造であり、疾病の見え姿を説明する装置としての精神分析由来の概念と、疾病の発生と本質を説明できる装置という対比がある。下田とその教室のメンバーが、特に精神分析との対比の中で自分たちの精神医学の理論の構造を説明したこの基本的な前提が、どういう経緯で作られたのか、時間がかかるけれども調べないと。