患者の物語の位置―1850年から2000年まで

Gillis, Jonathan, “The History of the Patient History since 1850”, Bulletin of the History of Medicine, 80(2006), 490-512.

 

医学史の定番の話題に、臨床の医師―患者関係における根本的な構造としての「物語と病変の対立」「症状と徴候の対立」などと呼ばれているものがある。パリの臨床医学革命の話をするときには、基本はこれを説明することになる。説明の仕方は幾つかあるが、私は、患者が自分で知覚することができ、自分で医者に語ることができる自分の病気と症状の話と、患者は気がついておらず、医師だけが患者の体から読み取ることができる情報としての徴候という形で説明している。

 

この論文は、この医師―患者関係において、医者が患者の物語をどう解釈したのかという問題を概観したものである。使った資料は医学の教科書に書かれている問診のアドヴァイスの部分であり、1850年から2000年までという長いタイムスパンの教科書を用いている。医学史で時々用いられる手法で、「長い持続」(ロング・デュレー)で教科書を用いる方法論である。この方法を熱心に勧める学者は少ないが(笑)、やってみるといいと言われているし、実は私もそのうち使ってみたいと思っている。

 

主たる結論は、パリの臨床医学革命以降にも患者の身体から徴候を取り出す新技術が続々と現れたが、それにもかかわらず患者の物語を聴くことを医者たちはやめなかったというもの。内容として面白いのは、1850年以降に、二種類の物語という枠組みが現れて、一つは患者が語る混乱して表面的な物語、もう一つは医師がその技量を用いて読み取ることができる深く首尾一貫した物語であるという指摘。もう一つが、これは私の専門にかかわることだが、1799年の小児科の医学書に医者が小児の病気に無関心でナースや老婆に世話をまかせてしまうのは、大人の精神病患者や精神障碍者が自分でリライアブルな物語をすることができないから医者がかかわらないのと同じであるという指摘があること。この部分、原典にあたって考えてみよう。

 

しかし、この論文が持つ圧倒的な魅力は、引用されているマテリアルが面白いことである。医学の教授たちが学生たちに、患者の物語という、医学的に非常に重要である一方で、さまざまな意味で辛抱して聞かなければならないことも多い情報にどう向かい合うかを教えているのだから、そこには医者の悩みと期待の双方が込められている。たとえば次のような例。

 

For the New York physician Glentworth Butler writing in 1903 in his textbook for students and practitioners, medical history was “more or less necessary, in some [cases] absolutely essential. . . . It is in obtaining a history that the largest draughts are made upon the tact and experience of the physician.”  Patients were difficult people: they could be too talkative, or not talkative enough; they could suffer from “dense ignorance,” or “false modesty or shame”; there could be “exaggeration of symptoms,” or “a stoic pride in making light of pain.”  “Leading questions are to be avoided, especially with impossible or ignorant patients.”