Madness in Modernist Tokyo 001 外交と精神疾患・犯罪に関する断片 

19世紀末から20世紀中葉までの日本の精神医療の構成には、外交も一つの背景をなしていた。ことに、この書物が扱う時代の始まりと終わりの双方において、二つの重要な外交上の事件に挟まれる形になっていることに注意を喚起したい。すなわち、1891年の大津事件と、1964年のライシャワー事件である。前者においては精神病の病歴を持つ(元)患者がロシアの皇太子の殺害未遂事件を起こし、後者においては統合失調症の患者がアメリカ大使を襲撃した。すなわち、日本の精神医療の制度の形成期において、大国の要人が精神疾患の患者により襲撃され、それに対処するために、日本政府は外交の圧力の中で国内の精神医療の制度、ことに犯罪の可能性を持つ精神病患者を拘束し収容する体制をつくることになった。
 
大津事件は、1891年の5月11日に、当時訪日していたロシアの皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県の大津で巡査津田三蔵によりサーベルで切りつけられて負傷した事件である。皇太子は一命をとりとめ、ロシアに比べて小国であった日本政府と日本国民は恐慌に近い反応をした。明治天皇をはじめとする皇室のメンバーや日本国民は懸命に謝罪の意を表明し、死をもって詫びる意を込めて自死した女性も現れた。ロシアへの謝罪のために、総理大臣の伊藤博文をはじめとする政治家は津田を死刑にするよう求めたが、当時の日本の刑法では津田を死刑にすることはできず、判決は津田を無期徒刑としたため、日本における三権分立の原理を確立させた事例としても知られている。
 
その反面で、精神疾患の患者(あるいは、その可能性がある人物)への対応としては、大津事件は日本における精神疾患の患者の収容の流れに乗っていた。津田には当時から精神疾患の疑いがあった。(注) 事件直後に、津田の鑑定が行われ、簡単な鑑定を行った医師、政府の一部、そして『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』などの大手メディアは、津田が精神疾患をわずらっている可能性を認め、それが持つ法制上の意味を把握していた。津田には少なくとも精神病の病歴があること、そして皇太子襲撃が精神疾患の結果であるとしたら、1882年の旧刑法の規定により心神喪失者として無罪であることなどが記述されていた。しかし、津田を精神鑑定によって心神喪失と定める手続きは取られず、結果的には、津田は常人として無期懲役の判決を受けて北海道の監獄に送られ、同年1891年の9月末に死亡した。津田三蔵の精神状態についての史料は少ないが、結果的には犯罪を犯した精神疾患の可能性がある人物を、無期徒刑の罪状で隔離収容したことになる。 
 
注 この主題については、井上章一. 狂気と王権. 講談社学術文庫講談社, 2008. 第5章「ニコライをおそったもの」が、多くの推測を交えたものであるが、興味深い記述をしている。
 
ライシャワー事件は、1964年の3月24日に、当時の駐日大使であったエドウィン・ライシャワーが19歳の少年に右腿を刺された事件である。この少年が精神疾患をわずらっていたことは明確であった。1962年に統合失調症で入院し、64年の1月の大使館放火事件の容疑者としても取り調べられ、警察は精神疾患の患者であることを把握していた。アメリカは、第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)の終了以降、占領を通じて日本を支配し、1960年の安保条約の改定などを通じてもっとも重要な同盟国となっており、日本の精神医療政策は、ここでも外交と大きな関係を持つこととなった。親日家であったライシャワー自身はこの襲撃後にも冷静で友好的な態度をとったが、日本の政府、精神科を含めた医学部の教授、新聞やメディア、国民の多くは、この事件をきっかけにして、精神疾患の患者を隔離収容する能力を拡大する方向、より具体的には精神病院の病床数を増加させる方向をさらに進めることとなった。『読売新聞』『朝日新聞』などの大新聞が、「野放し」という語を用いて、精神病患者の隔離収容をより広げる論陣を張ることとなった。
 
ライシャワー事件は、1960年代から70年代にかけての日本の精神医療に少なくとも一定の影響を与えている。同時代の欧米諸国においては、反精神医学、地域精神医療、精神医療の経費削減などの影響で精神病床数は大幅な減少に向かうのが一般的な傾向であり、日本の精神医療関係者の多くはその事情をよく知っていたにもかかわらず、1960年代以降にも日本の精神病床は激増を続けることとなった。1960年には約10万床であったものが1970年には24万床近くになっている。
 
注 岡田靖雄. 日本精神科医療史. 医学書院, 2002.