ベスレムにおける元患者の芸術運動とアクティヴィズム

historypsychiatry.com

 

https://historypsychiatry.files.wordpress.com/2019/08/ap_pressrelease_4.pdf

 

h-madness の広報で、ロンドンで開催される元精神病患者の芸術運動とアクティヴィズムのポスターを見た。当たり前のことだが、とても胸を打つ部分であり、今書いている考察の重要な支えがあったので書いておく。

精神医療には境界線のあいまいさが残っていたし、おそらく現在でも残っている。精神疾患が存在するかどうかという問題、その患者が罹っているとしたらそれは何かという問題、その患者を精神病院に収容するかどうかという問題、これらは医学的な性格が中心にある問題で、いずれもとても難しい問題であると、症例誌を読んでは実感する。

一方で、患者を精神医療のシステムの対象とするかどうかという機能的な議論だけが問題になってしまい、患者が人間らしく生きることができるかどうかという、より大きな問題を忘れてしまう。その大きな問題を患者自身が判断すればいいという考えには、歴史的には私は明確に反対であるし、現在の問題についても、慎重な態度をとっている。歴史的には、精神疾患があまりに深く進行して「早発性痴呆」や「精神分裂病」とまで呼ぶケースが多いからであり、現在では、薬物が進んで「統合失調症」がかなり回復するが、だから患者にすべてを任せていいわけではない。

それでも、患者たちがそのように言うきっちりとした社会的なスペースは絶対に必要である。ベスレムで展示を出しているこの言葉の意味が少しわかった気がする。

Dolly says: “This exhibition will honour our right to be ourselves and to be treated with humanity and respect, and even our right to stay alive, by using art to confront, to embolden ourselves with, to stand tall, and to show others they are not alone."

ことに using art という概念が存在することが患者の人間性と結びついている。凡庸に訳すと「芸術を用いて」となるが、「芸術」の概念がちょっと違う。art は、それよりもずっと広く深い概念である。専門的な芸術として卓越していなくてもいいし、精神疾患に特有の、おどろおどろしい病理である必要はあまりない。凡庸な表現でかまわないから、それが重要な患者を支える構造なのだから。