二十四節気の処暑

数日遅れましたが、二十四節気処暑についてのメモ。

8月23日に処暑立秋に続く秋の2番目の節気。処暑の「処」というのは、暑さが止まるという意味。処を漢和で引いたところ、ところ、場所、いる、とどまる、というような意味である。処刑や処分というフレーズとつなげて考えると「止まる」という意味が分かる。しかし、処女と「止まる」がうまく合わない。性交をまだしていないという意味なのか、月経に注目すると「止まる」なのか、私にはよく分からない。

初候は「鷹祭鳥」(たかとりをまつる)。獲った獲物をすぐに食べないで木の枝に刺しておくとのこと。雨水の初候に「獺祭魚」(だつうををまつる)とあるのと同じである。古代中国のインテリは何事も礼儀らしい自分たちを重んじるとのこと。鷹が獲物を木の枝に刺すかというのは、もちろんモズだとその通りで、庭の木にカエルがさされている光景は今でも見る。鷹が鳥について同じことをするのは観たことがない。

次候は「天地始粛」(てんちはじめてしじまる)。粛という中国語の意味、「しじまる」という日本語の意味、いずれも私には難しい。岡田先生の説明はとても上手である。明け方の気温が下がって、思わず身の締まるような朝になること。その時は冷ではなく、もちろん寒でもなく、やはり「粛」がふさわしいとのこと。うまい! で、粛を漢和で引いてみると、おごそかにする、つつしむ、うやまう、きびしい、という意味である。その中の「きびしい」に対応し、おそらく五行説に対応して、気が冷たいほうに動くという意味合いになる。秋気がきびしくなることを粛殺といい、霜のことを粛霜(しゅくそう)という。天地がはじめて「粛」となる、という言葉がなんとなくわかる。

末候は「こく乃秀」(こくのものすなわちひいづ)。意味は、私としてはよくわからない。麻か稲が秀でるという意味らしい。うううむ。

明るいニュースを一つ書いておく。このエントリーに「太陽は黄経150度に位置する」という記述があった。もちろん、すべての節気の説明にその体系にもとづく記述があったが、私はこの内容に関して無知であるという意識を持たなかった。それが、今朝、はじめて、自分の無知を知る言葉となった。「黄経150度」。何のことやら全く分からない。それは私がこの体系のこの部分について特別無知なせいである。この体系を知ると、コスモロジカルなものと自然との対応が分かるはずである。これからそれも調べます!