Halioua, Bruno, and Bernard Ziskind. Medicine in the Days of the Pharaohs. Belknap Press of Harvard University Press, 2005.
小学館が1990年代に作っていた<地球人ライブラリー>という不思議なシリーズの一冊『ミイラ医師シヌヘ』である。地球人ライブラリーは、医学史や疾病史の作品がかなり含まれている。『ミイラ医師シヌヘ』というのは古代エジプトの医師を主人公にしているから医学史小説の一冊で、デフォーの『ペスト』、シンクレア・ルイスの『ドクター・アロースミス』、J. トールワールドの『外科の夜明け』もそのような系譜につながる。また、シリーズの最後にブックリストがついており、そこに医学史関連の書籍で、小学館が刊行したわけでないものも入っていて、いいガイドであろう。ただ、このような作品が、きちんと訳されていない、もともとを非常に長いものを極端な抄訳にしている、そして解説者として書いている学者がまともな文章を書いていない著名な元学者であることなど、おかしい点も多い。ちなみに『ミイラ医師シヌヘ』の解説はエジプト学者の吉村某であり、作品とはほとんど関係ないことを書いていた。シリーズ全体としていったい何をしようとしているのかよく分からない。
著者はミカ・ワルタリ(1908-1979) で、フィンランドの小説家である。作品はフィン語で書いたというから、同じフィンランドに住んでいたヨハンソンが『ムーミン』シリーズをスウェーデン語で書いたのとは違うと覚えておくといい。また、『ミイラ医師シヌヘ』が翻訳された言語が、多様性に充ちている。英語、ドイツ語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、日本語はまあいい。その外に、スウェーデン、エストニア、ポーランド、ハンガリア、ギリシア、ペルシア、チェコ、リトアニア、セルビアなどの諸国語に訳されているのが、何か不思議な印象を持つ。もともとは1945年にフィン語で刊行され、英語訳は1949年におそらくスウェーデン語から訳され、1954年にハリウッドの英語になったという。
第二次大戦の末期から終了後にかけて、人道主義と権力主義・物質主義の二つの価値感の中で書かれているという。主人公である医師のシヌヘは人道主義的な立場にいて、女の邪悪な魅力や王の権勢に物をいわせるものたちと闘うという。ここにはナチス・ドイツとの闘いもあったし、福祉国家の導入も関係あるのかもしれない。
小説で主人公がなるミイラ医師というのは、人体の臓器などを取り出してミイラにする技法を持つ医師のこと。それよりも面白いのが、エジプトには開頭術を持っているという有名な記述である。これを王や精神病者に盛んに行って、時々は成功した医師の様子も小説にはたっぷりと描かれている。開頭術である craniotomy, trephination は、いわゆる医学パピルスには記述がないが、実際に遺されたミイラを見ると、このような開頭術は行われたし、そのあとかなりの時間に生きていたこともわかっている。頭を露出させて、その頭蓋骨を切り取るという手術が、どの程度洗練されていたのか、そもそも彼らが麻酔などの技術を持っていたのかなどの、眩暈がするように難しい論争になる。ネットで見ると、2,500年前には開頭術がはっきりと行われた頭蓋骨も出るというから、エジプトには平然と出てくるのは、それでいい。
そして、この小説は、当時のエジプト学者たちから高い評価を受けていたというから、他の部分もかなり信用できるのだろう。たとえば登場人物はワインを平然と飲んでいて、wine で調べると、古代エジプトでは実際にぶどう酒を飲んでいる。だから、開頭術もこのくらいは登場させていいのだろう。「地球人ライブラリー」が、でたらめで面白い二つの正反対の側面を持つ点である。