相良知安とドイツ医学の導入について

相良知安について

 

鍵山栄『相良知安』(東京:日本古医学資料センター、1973)

 

相良知安(1836-1906)は、佐賀に生まれ、幕末の佐倉順天堂と長崎で医学を学び、藩主鍋島直正の侍医となった。明治2年に若干34歳で新政府の学校取調御用掛に抜擢され、新政府の医学教育などの根本を定める要職についた。それまでの西洋医学はもちろんほとんどをオランダから学んでおり、相良自身も長崎ではオランダ人ボードウィンから医学を学んだが、オランダよりも上級な模範となる国が求められていた。国際情勢としてはオランダの国勢は相対的に低く、医学的には当時のドイツ医学の興隆は明らかであり、日本がオランダから学んだ医学は、実はもともとはドイツ語から訳されたものであることに当時の日本の医者たちは気づいていた。シーボルトがドイツ人であることもドイツびいきに貢献した。しかし、新政府内ではイギリスになびく声が大きかった。薩長の従来のイギリスとの連関や、戊辰戦争でのイギリス人の医師ウィリスらの活躍にものを言わせて、イギリス公使はイギリス医学が新政府に取り入れられることにかなり成功していた(なぜだろう?)それに対して激烈な戦いをしてドイツ医学を導入することに成功したのが相良である。そこには、ドイツ語は西洋医が慣れていたオランダ語に似ていること(<ライブラリーの医学>としての、書物を重視する態度)、プロシアの君主政体と比較的若い新興の国であること、そしてイギリスの尊大な態度が不人気であったこと(「国人を侮り」と表現されている)、アメリカは医の師匠としてそもそも話にならないこと(「医余りなし」)などが理由であったのだろう。また、ドイツは、まだアジアに馴れていないと表現されているが、ドイツの尊大さをまだ日本の医師たちが経験していなかったこともあるのだろう。

 

もう一つ面白いことがあったのでメモ。相良のドイツ医学案は採用されたが、一つ彼は採用されなかった案を持っていた。「医」という用語を「護健」に変えようという案である。これは、この本も随時触れているし、また医学史の中心的な主題になるのだろうが、日本における医師の社会的地位は、江戸時代に較べると明治期以降にはっきりと上昇している。相良自身にとっても、江戸期における医という地位が一つの「方技」とみなされており、地位が高くないこと、それを改善しなければならないのは中心的な課題であった。そのため、彼は「医」という用語の改善を唱えた。その文章は本書に引用されているが、基本は、皇国ができたあと、仏教などとともにきた文化で「医」という言葉が導入され、それが身分が低い職人の技であるとみなされるようになったという発想に基づいている。そのため、彼は「護健道」「護健師」という言葉を提唱している。この言葉を使えば、それまでの身分の低さの記号であった「医」から解放されるという発想である。

 

それからもう一つ。この本はしっかりしたリサーチに基づいた良い本だと思う。しかし、その背後には、熱情があり、魂の叫びがあり、佐賀で書かれた『葉隠』へと飛躍する衝動のようなものがある。相良の人柄が『葉隠』であるというのである。記述も時として私小説のようである。詳細は読んでもらうしかないが、明治の佐賀県に生まれて昭和5年に長崎医大を出た筆者にとっては、『葉隠』の思想で医学の歴史、少なくとも佐賀の医学の歴史を情熱的に読むことが、もう固定した見方なのだろう。