午前中に映画を観てきた。『チューリップ・フィーバー』という17世紀のアムステルダムがチューリップ・マニア(英語では tulip mania) となった時の人々を描いた映画。 たまたま私の仕事で18世紀のオランダの医学史の部分を書いたりしたこともあって、とても面白かった。医学史的に言うと、産婆と男性産科医とペスト流行のときに何をするのか、わりと正確に背景が描いてあって面白い。 そのような医療制度と公衆衛生制度の条件ではじめて成立する。チューリプ・マニアの描き方も、花の新種に経済と契約を通じて熱狂する様子で、映像ではじめて観たけれども、とても面白い。経済と狂熱と酒と売春と喧騒の毎夜で、そうなんだろうなと思う。18世紀のイングランドの南海泡沫も似たような感じだったのだろうか。
もう一つ、一番面白かったのが、チューリップ・マニアが終わったからと言って、オランダのすべてが崩壊して二度と帰ってこなかったわけではないというメッセージである。マニアが終わって、経済と性の狂熱が自らの社会を崩壊させる。家庭での余分な権威、性の情熱への過剰な欲望も、その間違いを自らさとる。そして、それから8年後には、いつものような普通の生活が帰ってきた様子が描かれて終わる。この部分がとても面白い。自分が数パラグラフだけ描いている18世紀のオランダについて、自分たちが17世紀に何をしたかを分かっていたということを少し想像した。
最後に、tulip fever という表現。もともとのオランダ語では tulpenmanie であり、そのまま英語風にすると tulip mania になる。ドイツ語でも tulpenmaia でいい。しかし、この映画の原作は tulip fever である。mania から fever へと移行するという動きが英語圏などでも起きているのだろうか。ここはわりと興味がある。ディメンティア・プラエコックスの訳である早発性痴呆、スキゾフレニアの訳である精神分裂病という診断名が廃止されて、統合失調症となるという日本の決断があったが、その流れで、チューリップ・マニアからチューリップ・フィーバーになるのだろうか。