二十四節気・清明

立春ー雨水ー啓蟄春分を経て、次は清明太陽暦だと4月5日くらい。清明の節気には、春のうららかにして、万物が若々しい季節を表す。8月の節気である白露(びゃくろ)と並んで美しい言葉である。万花咲き、温風頬を撫で、人々は楽しく郊外で遊ぶのがこの頃である。
 
万物が清潔明暢である。「明暢」(めいちょう)という言葉は、明るくのびのびとしていること、明快で筋が通っていることを意味する。上田敏海潮音』の「明暢晴朗なる希臘(ギリシア)田野の夢」がよく引用されている。ギリシアの農耕地と果樹園で見る夢が、どのくらい明るくのびのびしているのか、私には少しわかるけれども、田野というより、エーゲ海と白い建物が浮かんでいる。青春時代に見た池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ』という小説と映画が犯人である。フロイトオイディプス王が現代に与えた矛盾的な深い影響かもしれない(笑)
 
清明に戻すと、初候は「桐始華」(きりはじめてはなさく)、末候は「虹始見」(にじはじめてあらわる)である。桐も虹も私にとって新しい主題である。
 
次候が面白くて「田鼠化為〇」(でんそかしてじょうとなる)「じょう」と読む「〇」は、上に「如」、下に「鳥」を書いて、意味はウズラの一種。岡田には「フナシウズラ」と書いてあった。「田鼠」は田畑のモグラという意味。4月には田畑のモグラがウズラになるという意味になる。「陽気」がもぐらをうずらに変えるという説明である。陽気を感じて獣が鳥に変幻するという超自然的なあたりが古代の哲学であり、錬金術であり、化学の基盤である。日本が、この神秘主義を否定したのは江戸時代。貞享暦以降は鴻雁北(こうがんかえる)という、カモが北に帰るという別の言葉を用いている。