身体の歴史と都市の歴史


 都市と身体の歴史についての書物を読む。

 「感染と空間の詩学」というワークショップを組織して論文集を編集することになっている。その関係で、身体の歴史と空間の歴史が交差する茫漠とした領域をさまよって、アイデアを探している。その中で、有名な歴史社会学者が書いた本を読む。「西洋文明における身体と都市」という副題が示すとおり、古代ギリシアから中世・近代を経て現代までを400ページで点描的に書いてつなげた、めまいがするような壮大な構成の書物である。

 基本的な狙いは面白い。身体とその多様性は、西洋に文明にとって根本的な問題であり、その問題が、それぞれの時代の建築や都市計画などを通じて表現されていた。その表現をたどることで、西洋文明にとっての肉体と都市の歴史を書こう、というものである。著者が言う根本的な問題というのも、(少なくとも私にとっては)意表をついていて面白い。「運動と感覚」である。現代の都市生活では、運動の自由が最優先されている一方、身体的な感覚が奪われているというのが、著者の見立てであり、この運動と感覚のディレンマの2500年の歴史を鳥瞰しようというのがこの書物の狙いである。 

 色々と面白い記述は多かったが、その中でも17世紀以降の議論の要約が、この書物のメリットとデメリットの双方を伝えるのにいいだろう。筆者は、話をハーヴェイの血液循環の発見から説き起こして、血液が循環し自由に動いていることが健康な身体のモデルになったという。同じ自由なサーキュレイションの崇拝が、アダム=スミスの資本と労働の移動の自由の擁護に見出せるし、イタリアの都市の大衆の中での孤独な平和を見出したゲーテにも、フランス革命期の都市計画にも見出せるという。それぞれの議論のピースは面白いが、議論の全体的な方向と組み立て方に、どうしても違和感を感じる。「近代は内部で血液が循環する身体のイメージが、人間のさまざまな活動に投影された時代である」と言いたいのだろうか? それを例証するために、さらに「証拠」となる事例が発掘されて提示されると、説得力が増す議論なのだろうか? 

文献はSennett, Richard, Flesh and Stone: The Body and the City in Western Civilization (New York: W.W. Norton & Company, 1994).
画像は18世紀パリにおける「肺」としての自由な空間であった、Place Louis XV