ハンセン病患者の虐殺:1321年

必要があって、1321年のフランスで起きたハンセン病患者の虐殺についての論文を読む。ギンズブルクが『闇の歴史』の中で書いていたのと同じ事件である。文献は、Barber, Malcolm, “Lepers, Jews and Moslems: the Plot to Overthrow Christendom in 1321”, History, 66(1981), 1-17.

この事件は、一般的には、ユダヤ人とハンセン病患者をスケープゴートにしたものであった。物質的に、そしてイデオロギー的に、当時の中世社会が緊張していたことを示す証拠は多い。1315年には飢饉がおき、1307年以降にはテンプル騎士団悪魔崇拝の行為にふけっていたという罪状がでっちあげられており、キリスト教徒(ハンセン病患者)たちが異教徒なりキリスト教の敵と手を握って敵対するという脆弱性の意識の裏返しの攻撃性も定着していた。

イスラム教徒はもちろん最大の敵であったし、ユダヤ人は中世を通じて一貫して嫌われた存在だから、それらが引き合いに出されたことは驚くには値しない。問題は、なぜハンセン病患者が、そのスケープゴートに駆り出されたかである。重要なことは、彼らは追放の儀式を経て、特別の居住区、衣服、持ち物を備える集団であり、その点でゲットーに住むユダヤ人と同じような「特別の集団」であったこと。ハンセン病の判定というのは、医学書を読むと医者の仕事のように書かれているが、医者がいないことも多く、その場合には、疑いがかけられた個人について、その個人が属する共同体が意思を決定するという形をとった。あるいは医者がいる場合であったも、そのような形をとったこともありえる。この個人について共同体が意思決定をするという形は、異端審問や魔女狩りと同じパターンをとる。もう一つ、体液説は、ハンセン病患者の精神がおぞましいものであるという結論を導きやすい。身体の状態を決めるものとしての体液も、性格や精神のあり方を示す気質も、いずれもhumour である。身体が崩壊しているほど体液が失調したハンセン病患者は、その気質においても邪悪でねじまがっているのである。

専門家社会ではないから、医者がいないときには共同体がその代わりをしたし、医者がいても専門家としての自立などむろん期待できないという視点は心にとめておかないと。体液説の心身調和は、醜い姿のものは心も醜いという考えをテンプレートにしたことも心にとめておこう。