ザミャーチン『われら』

エヴゲーニィ・ザミャーチン『われら』川端香男里訳(東京:岩波書店、1992)
必要があって、1920年代にソ連で書かれた体制批判的なSFを読む。もともとは、Cultural History of the Body に収録された論文から読まなければならないと思っていた書物。

1920年代には、自己と社会についての言説は、モダニズムとテクノロジーの関係と正面から向き合うようになった。高度な科学技術を用いた産業社会において、その原理を用いて国民や労働者を管理する国家はどのような形をとるか、そこで「個人」はどのようになるか、という問いである。一般の論調では科学技術は賛美され、マリネッティに未来主義はそのような芸術を賛美した。人間と社会が機械の合理性と効率に同化するべきであり、産業機械の正確・規則的・合理的な動きに合わせて、人間・労働者が組織されるべきだという考えも、産業界を中心に提出された。いわゆる「テイラリズム」の思想である。これは、フォードの工場や、ケロッグフレッチャーにも影響を与えた。ソ連にも影響を与えて、テイラリズムの原理に応じた共同体が構想された。

当然のように、これを批判する者たちも現れて、彼らは「ヒューマニズム」の陣営を形成して、現在でもこの構造は続いていると言ってもよいという印象を私は持っている。特に第一次大戦が終了し、科学技術を用いた兵器による兵士の大量死の衝撃が人々の心に沈んでいくのにともなって、近代国家、産業社会、科学技術への批判的な態度が形成される。その代表がチャペックの『ロボット』(1920)で、ほぼ同時期に執筆されたのがザミャーチン『われら』である。革命後の共産主義国が持つ全体主義的な傾向と、科学と技術への信仰への批判的な書物である。ソ連では本作は問題作で、結局ロシア語では出版されず、本人はすぐにパリに亡命し、危険思想として長いこと文学史から抹殺されていた。

描かれているのは、国民が構成する国家にかわり、「ナンバーズ」と呼ばれる人々からなる「単一国家」である。そこでは個人はなくなり、みな「われら」となる。テイラリズムに支配される工場のように、時間律が存在して合理的・効率的な生活が行われている。個性とプライバシーは否定されて、人々はD-503 や I-330 のように文字と数字で呼ばれるようになる。このような社会において、数学者で技術者であった主人公が、ある女性に恋をして、その時のときめきや嫉妬や不安を持ち、それゆえに自分は病気だと心配して、結局反乱に参加して、最後には処刑される話である。特に自分を病気だと思う内心の動きについての内観的な記述が面白い。

確かめたいことがあって、英語でもう一度読んでみることにした。