モンテヴェルディ「エロティック・マドリガル」

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日曜の午前中に、庭仕事をして、少し仕事をして、午後にはモンテヴェルディの「エロティック・マドリガル」を聴いている。古くて中古でないと手に入らないけど、とても評価が高いCDらしい。30年ほど前に、渋谷の「フリスコ」という輸入クラシックCDの専門店で、マスターが勧めてくれて素直に買った一枚。

なぜこれが「エロティック」なのかという問いを久しぶりに思い出した。CDのカバーはエロティックである。歌詞も、私に分かるのは英訳だが、確かにエロティックである。冒頭からして、キスと愛欲の接近戦から始まっている。昔は、もっと色々なことが気になっていたのだが、このマドリガルはなんとなくエロティックであると了解できるようになった。それでいいことにする。説明してくださる方がいたら、喜んで蒙を啓いてもらおう。

 

医療人文学の日本版は可能なのか

Heartfelt images: learning cardiac science artistically | Medical Humanities

 

イギリスのBMJ の医療人文学系の主題の論文を集めた雑誌 Medical Humanities に面白い論考。これは芸術系の論考で、医学生と歯科学性に心臓に関連するアート作品を制作させて、その作品を論じ、教育的な効果を論じたものである。学生の作品制作の主題に応じて、解剖系、生理・病理系、運動系などに分けてみたという。歯科学の学生は、手仕事とコレオグラフィーを重視したとか、面白いことが要約に書いてあった。(本文はまだ読んでいません)
 
これは、イギリスとアメリカで医学教育の一つの新しい柱になった医療人文学 medical humanities の仕事である。これは、幾つかの新しい学問が複合して一つの制度的な教育の形になったものである。その新しい学問は、1970年代から新しい転換を迎えた、生命倫理学、医学史、医療人類学、医療社会学STS、医学と文学、医学と芸術などである。これらは、それぞれ独立した学問の領域で発展してきたが、およそ20年から30年の発展と深化と拡大を経て、医学教育と制度的な関係を持つようになった。ちなみに、私個人のキャリアでいうと、私が学んだのは医学史で、歴史学者と医学部出身の医学史・科学史の研究者に教わっており、medical humanities の制度の中の学生だったわけではない。というか、この教育のシステムができたことを私が実感し始めたのは、つい最近のことである。
 
このフォーマットは、医学部や医学校、あるいは看護学部などで教えられるものである。私は医学部の教員ではないので、はたしてそんなことが日本の医学部で可能なのかどうかよくわからないが、明るい条件と、乗り越えなければならない問題の双方を書いて置く。
 
まず明るい条件。教えることができる若手の研究者がたくさんいる。私のように外国のしかるべき領域で教育された研究者も多い。日本の歴史学科、哲学科、社会学科、文学科などで教育された研究者もたくさんいる。彼ら・彼女らはこの主題を専門として、青春を掛けてきた。医学部の皆さんが、同僚の(あるいは年長の)お医者さまについて時々口にされる「何々先生が歴史に詳しい」といわれるときの詳しさとは、深さと質が違うことは信頼してほしい。
 
一方で、乗り越えなければならない問題。この研究者たちが持っている「医学系の能力」、つまり医学部や歯学部や看護学部で学生に教育するためのスキルである。私個人はそれを習っていないが、外国にはその仕組みがある。しかし、人文社会系の大学院生に教える仕組みは、おそらく日本にない。あるとしたら、教えていただきたい。教育の経緯と個々の力の差があるだろう。それができるような教育の仕組みで教育されてきた学者もいるし、そうではなく人文社会科学オンリーの環境で育ってきた学者もいる。前者の力を伸ばし、後者をどうにかすることが、どうしたらできるのか。医学部と人文系・社会系の学部の双方を持っている大学であれば、何かができそうである。 

心臓と脳の外科医学についての書評 

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イギリスの雑誌 Prospect にジョアナ・バーク先生の外科医についての二冊の書物の書評。とても面白いのでまず読んでみるといい。心臓と脳という二つの重要な臓器、外科手術の歴史的に複雑なアイデンティティ、現代における飛躍的な進歩と成功、そしてその裏にある人体をモノとして操作する技術と、そこで作り出される独特の人格。 近年の一般的な態度では「外科はサイコパスだ」と言われているし、外科医たちは自分たちで調査をした論文の副題に「外科はサイコパスか?そしてそれは悪いことか?」と書いているという。
 
下にいくつかメモしておいた。
 
Pare, "the heart was the chief mansion of the Soul, the organ of the vital faculty, the beginning of life."  
 
If anything is truly me, it is my brain.  
 
 
David Cheever, anaesthetic 1897  
"the surgeon need not hurry; he need not sympathetic; he need to worry; he can calmly dissect, as on a dead body"  

カレーのCMと食欲と性欲

 
ツイッターで時々登場するグリコのカレーのCM.  ご覧になればわかりますが、食欲と性欲が完全に同期されている映像である。女優さんが辛いカレーを食べているのか、貪欲に淫乱に性行為をしているのか分からなくなるように作られていると私は思う。
 
色々な説明の仕方があるけれども、ガレノスの四体液理論と人体の理解でかなり説明できる。ガレノス主義の基本は、食物と血液と精子(種子)が同じものが精製されて変わるという考えである。それらしい食べ物をたくさん食べると、血液の性質が変わり量も多くなり、それが活発な精子にいたる。食を養生することと、有益な精子を十分に持つことは、血液を通じて直接的な関係を持っている。
 
一方、身体と世界は熱―冷と乾―湿という二組の対概念で作られており、この組み合わせで四種類に分類できる。人体の体液は、血液、粘液、胆汁、黒胆汁で、それぞれ、熱く湿っている、冷く湿っている、熱く乾いている、冷たく乾いているの四つの性質となる。ここで気をつけたいのは、性欲と結びついた血液が、熱くて、湿っていることである。CMの女優のポイントは、熱くて湿っており、それが激しい熱と髪までびっしょりの発汗で表現されている。つまり、体から、精子のもとになるものが発散され、それと食べることが同一視されている。 
 

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文献としてはこの本が標準的な研究である。私は読んでいないが、ナッツの世界史やパンケーキの世界史などの楽しい本も書いているとのこと。
 
Albala, Ken. Eating Right in the Renaissance. California Studies in Food and Culture. Vol. 2: University of California Press, 2002. 
 
(もともと何を書きたかったのかわからなくなったけど、とりあえず書いておく 笑)

心臓の宗教的な意味

publicdomainreview.org

医学史の通史で17世紀の章に入った。血液循環のハーヴィーや機械論のデカルトを論じる章である。前回のパラケルススに較べるとずっと好きな人物たちなので、予習に向かう足取りも軽い(笑)

ハーヴィーは『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』(1628) で、心臓を王権神授の国王に例えている。国王が身体の礎であり、国王から総ての権力が発するように、心臓も身体の中枢であり、そこから血液が流れだして帰っていく要である。このような政治の話と並んで、宗教的な解釈ももちろん研究されている。手元にあった James Peto ed., The Heart (2007) などを見ると、美学でも宗教でも心臓が中心になっていて、それをどうまとめようか考えていたところ、ちょうど public domain で記事が組まれており、心臓を罪と救いの身体の座と考える一連の版画が提示されていた。罪を犯した心臓には、悪魔と悪徳が住み、7つの悪徳を象徴する動物が描かれている。たとえば孔雀は傲慢の象徴である。しかし、死を思い、心の中を見つめ、光がもたらされると、心臓には宗教心が入るようになる。しかし、いったん救われても、すぐに心臓にこの世の悪徳が入ると罪びとになってしまい、それを防ぐと宗教者のまま死ぬことができる。

一夫多妻制のメリットとデメリット(鳥の話です 笑)

日本野鳥の会の『野鳥』に面白い記事があったのでメモ。 『野鳥』2017年8月号(No.817)濱尾章二「鳥の繁殖生態学
 
鳥のオスの交配行動を見て、一夫多妻がプラスなのかマイナスなのかに触れる。もちろん地雷だらけの場に踏み込むきわどい記述である。著者がそれをどこまで意識しているのかどうか分からないけど(笑)
 
鳥のオスは、さえずりをしてのは、メスを獲得して、交尾して、自分の子供を残す。メスと性交すると、そのメスにぴったりよりそって世話をする。これを「メイトガード」という。もちろん抱卵したメスを守って餌を取ってあげたりする美談でもあるが、同時にメスの性行動を監視することでもある。メスが他のオスと番おうとするし、この時期に他のオスと交尾してヒナが生まれてそれを育てると、他のオスの子供を育てるという、無意味で腹立たしいことをすることになる。それを避けるためのメイトガードである。このメイトガードは重労働で、ツバメのオスは10日間で体重が2グラム減る。これは体重の10パ―セントであるとのこと。
 
ここまで読むと、一夫一婦のシステムが合理的に見える。ところが、オスもメスも、このシステムとは相いれない傾向を持っている。自分の子供をとにかく多数残すためには、一夫一婦は最適な方法ではない。性交頻度を頻繁にするためには、乱交の状態がある程度必要になる。オスはあるメスとの交尾が終わるとすぐに別のメスを探しに行くし、メスも先に触れたように他のオスを受け入れる。複数のメスとの交尾に成功したオス、あるいはそう信じているオスは、複数のメイトガードがあるから、ものすごく忙しい。性交そのものではなく、その後のケアで、へろへろの状態である。それでも、結局、たくさんの子孫を残すことができるらしい。おそらく、一夫一婦制を守ったオスよりも、という意味があるのだろう。メスにとっても、そうなのだろうか。 
 
一夫一婦制は確かに合理的だけれども、その合理性を破り、かなりの負荷を自らに掛けながら、一夫多妻制と多夫一妻制への冒険めいたことをしている。そしてそれが有利というか有理というか、そういう言葉で表現されている。また、著者が書いてない面白い問題もある。相手にされなかったオスはどうするのだろう。人気がありすぎたメスはどのオスにメイトガードされるのだろう。

ジャコメッティの夢の立体化

Giacometti, Alberto, and Barbara Wright. "The Dream, the Sphinx, and the Death of T." Grand Street, no. 54 (1995): 146-54.
 
ジャコメッティが自分の夢、「スフィンクス」という名前の閉店する売春宿への訪問、そして友人の死、について書いた記事を読んだ。最初からかなりの部分は、夢の話などを淡々としているのだが、最期に、その記憶を平面化し立体化していくという虚空に駆けていくような素晴らしい文章である。読んでおいてよかった。その部分のメモも取っておいた。
 

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