鎖国時代の疾病のエコシステム・メモ

  1. Hanley, Susan B. Everyday Things in Premodern Japan : The Hidden Legacy of Material Culture. University of California Press, 1997.
  2. Rotberg, Robert I. Health and Disease in Human History : A Journal of Interdisciplinary History Reader. The Journal of Interdisciplinary History Readers. MIT Press, 2000.
  3. Hanley, Susan B. "Urban Sanitation in Preindustrial Japan." The Journal of Interdisciplinary History 18, no. 1 (1987): 1-26.
 
スーザン・ハンリー先生は優れた日本史の研究者で、医学と衛生の関連でも非常に重要な議論を提示している。近世日本の都市の衛生が優れていたという主張である。1の書物の4章と5章では、その議論を十分に展開している。コアになる業績は、3. の優れた論文で、この論文は、衛生の歴史の標準的な教科書の一つである、2. の論集も収録されている。世界で標準的な議論の一つであり、もっとも標準的な議論であるという印象を私は持っている。
 
議論のコアは素晴らしい。近世の日本の都市は発達した上水道のシステムと、都市生活で発生する糞尿を処理するシステムを発展させ、衛生的であったというものである。東京の神田上水と多摩上水を見よ、糞尿を財と見なして、その所有者がいて農村の百姓と売り買いするシステムが発達したありさまを見よ、それを通じて日本の「浄」「清」「潔」という倫理的な美学が現れてきたありさまを見よ。どれもすばらしい論点である。私はとても賛成している。
 
ひとつ賛成できない点、おそらくハンリー先生が間違っている点は、このシステムを欧米のシステムと比べるという議論である。「このような近世日本の都市と農村の衛生システムは、ヨーロッパの都市のそれよりも発展していた」とハンリー先生はいう。この比較は、17世紀から19世紀の欧米と、その時期のほとんどを鎖国していた日本という、大きく条件が違う二つのエコシステムを較べる作業である。ほとんど意味がない。有名な天然痘の例でいうと、中世のヨーロッパの都市と、中世のメキシコシティーを較べて、後者に天然痘の患者がいないから後者の防疫体制はより進歩していたという議論とあまりかわらない。後者に天然痘の患者がいなかったのは、それがいないエコシステムだったからであり、防疫の問題は何の関係もない。江戸時代の日本に欧米のような都市型の水の衛生に関する疾病がなかったのは、日本が島国であることと、しかもいわゆる鎖国のシステムをとっていたことによって、ユーラシアのさまざまな疾病がある程度せきとめられていたからと解釈することができる。いくつもの疾患が日本にない状況であった。
 
より大きな問題が、19世紀に二つのエコシステムという体制がくずれたときに日本に侵入したコレラが出した大被害の問題である。コレラがユーラシアから日本に侵入するようになったときに、日本の都市も農村も記録的な被害を出した。1858年の江戸はおそらく3万人から4万人である。(その数字をもっと高く10万人から20万人と考える新しい異論もある。その研究を読んでいないのでよくわからない) 3万人から4万人といっても、いまの東京の感覚でいうと、ひと夏で30万人の死者が出た感じである。その後も、1870年代の後半から20-30年間にわたって、コレラは明治日本で荒れ狂う。全国で年に数万人の死者は日常茶飯事で、1879年と1886年には、いずれも死者は10万人を超えている。イギリスはもちろんのこと、ヨーロッパの都市や国家の多くが経験したよりも桁数が違う規模の被害である。(ロシアのように、これを超えた被害を出た国もある。このあたりの数値を出すようにします。) これは、私の解釈では、鎖国の放棄と共に、近世のエコシステムではなく、ユーラシア型のエコシステムに組み込まれると、昔のシステムにあった脆弱性があらわになったからだと思う。この大惨事を、日本の都市の衛生システムが「ヨーロッパより」発展していたと論ずるハンリー先生がどう解釈するのか知りたい。
 
それならその日本の鎖国期の疾病のエコシステムはどのようなものだったのか。この問いに答えられないのが、悔しいところである。

山梨のコレラ・長崎のコレラ

飯島、茂. "山梨県下に於ける安政5年の暴瀉病流行日記市川文書に就いて." 中外医事新報, no. 1121 (1935): 282-88.
 
安政5年の江戸を含む地域のコレラ大流行の際に、山梨県下の人物が記した日記の採録。オリジナルとその記録についての情報が収録されているから、すでに読まれているに違いない。いくつか面白い点は、天保5年の神仏に関する記録があり、それを批判して、役人万能で、官尊傲岸で、統治者が被統治者を軽蔑しているとか、面白いことを言っているのだが、その記録が漢文で私には読めないのが悲しい。熊野のカラス(鳥)、民間療法、コレラになる人間には狐憑きが多いから、狐憑きの狐落としとコレラ予防が重なっていた話など、どこかで読んだことがある事例の記録も多い。熊野の鳥はこのような感じ。
 

f:id:akihitosuzuki:20170724172854j:plain

 
 
才津、芳雄. "明治36年長崎市ニ於ケル「トツポ」水「コレラ」ニ就テ." 長崎医学会雑誌 20 (1942): 656-57.
 
公衆衛生と地元の水の探訪が昭和17年にドッキングした不思議な論文。明治36年の記録を見ていたら、長崎市の夫婦川町でコレラの流行があった、その時はトッポ水が流行のきっかけであった、著者の才津はトッポ水を知らないので現地を訪ねた、それは新大工町市場裏より山沿に高商にいったところにある小道の途中である。この語源などを聞いてみたが、諸説があり、弘法大師が開いた泉で特効がある水なので「とっこうすい」が転じたという説、諏訪神社の「トッポ組」と関係がある、水が絶えないので「鉄砲水」だったがそれが転じたという説。現在のネットでは弘法大師が独鈷(どっこ)を用いて開いたから「どっこすい」が転じたという説が強い。ネット上には写真もたくさんあり、長崎特有の山に坂が折り重なった地域に家があるような趣がある風景である。

パヴロフの伝記

Todes, Daniel Philip. Ivan Pavlov : A Russian Life in Science. Oxford: Oxford University Press, 2014.

イヴァン・パヴロフはロシアとソ連の生理学者・神経学者で、イヌにベルの音を聞かせて餌をあげる条件反射の研究で名高い。ノーベル賞の受賞は1903年でロシアの時代であり、そこからロシアは1917年にロシア革命を経験するという政治体制の激しい変動に向かうが、パヴロフはこの変化によく対応して、優れた研究の利権を提供され続けていた。ロシア革命の後のソ連にとって、体制に協力的な世界的に著名な医学者の一人であり、その脳と神経の重視は現代の神経と精神の研究の基盤を形成した。

その偉大な医学者についての原基となる伝記である。細かい活字で850ページの大著で、50章立てでパヴロフの生活、科学、研究体制、政治などのさまざまな側面を論じている。犬は実験対象というよりも個性と性格の違いを持つ作業員であったかのようだったこと、それを利用してフロイトの症例アンナ・Oと結びつけた生理学的なヒト/イヌの行動モデルを作ろうとしたこと、精神医療にも積極的に関与しようとしたことなどが、詳密に描かれている。秋学期は、パヴロフで一時間の授業をしよう。

試しにスライドを一枚作ってみた。いずれも1904年くらいのサンクトペテルブルクの研究所から。上段にはイヌの実験と合間の楽しい外出の写真を、下段には建物の地下に作られたイヌの飼育場と廊下に一列に並ぶイヌの檻の写真である。

日本の医学者にも多少言及しているが、1930年代に留学して慶應医学部の生理学の教授となった大脳生理学者の林髞(はやしたかし)は言及されていなかった。

 

f:id:akihitosuzuki:20170723171125j:plain

夜長姫と耳男ー蛇の生き血と二つの疫病について

「夜長姫と耳男」(よながひめとみみお)は坂口安吾が1952年に刊行した短編で、「桜の花の満開の下」と並ぶ傑作のひとつ。飛騨の匠である耳男が3年かけて仏を彫る物語によせて、日本の民話の構成、敗戦後の男たちの空虚、性という亀裂などが描かれた作品である。面白いことに、そこに伝統社会における疫病と医療の問題が描き込まれているので、その部分をメモしておく。
 
まずは血を用いた民間療法の主題で、飛騨の匠の耳男が傑作の彫り物を作ることができたことが、蛇や動物の生き血を飲む民間療法と結び付けられていることである。耳男は、蛇を捉えて裂き、その生き血を飲みで、残った血を作品に注ぎかけて、血みどろな体で血塗られた傑作を作ろうとする。そして、その像が捧げられる夜長姫はそのことを知り尽くして、耳男と結ばれるはずだった女の血にそまった衣服を与え、作品の末尾では、自らも蛇の生き血啜りを実践する。
 
この血が「生命」と関係があるとすれば、もうひとつのエレメントは「死」であり、流行病による死である。姫が住む村には二つの流行病が襲い掛かり、村人たちはばたばたと倒れていった。一つは疱瘡、もう一つはきりきり舞いをして倒れて死ぬ病気である。耳男が作ったバケモノは疱瘡を追い払うことができたが、もう一つの人々がきりきり舞いをして倒れる病気には無力であった。ここをめぐって、夜長姫が人々の死を眺めて楽しむキャラクターになっていく。疫病から村と家と女と自分を守ること。その死の問題も織り込まれている。

江戸時代の民間治療 

眠竜翁, 宗哲 奈良, 正哲 前川, 政章 木内, 獨妙 申斎, 増業 大関, 恵 浅見, and 健 安田. 耳順見聞私記 . 袖珍仙方 . 竒方録 . 漫遊雑記藥方・農家心得草藥法 . 妙藥手引草 . 掌中妙藥竒方. 近世歴史資料集成. Vol. 第2期 ; 第10巻 . 民間治療 / 浅見恵, 安田健訳編 ; 3: 科学書院
霞ケ関出版 (発売), 1996.

浅見, 恵, and 健 安田. 救急方 ; 萬方重寶秘傳集 ; 懐中備急諸國古傳秘方 ; 藥屋虚言噺 ; 寒郷良劑 ; 此君堂薬方. 近世歴史資料集成. Vol. 第2期 ; 第11巻 . 民間治療 / 浅見恵, 安田健訳編 ; 4: 科学書院
霞ケ関出版 (発売), 1995.

青木, 歳幸. 江戸時代の医学 : 名医たちの三〇〇年. 吉川弘文館, 2012.

新村, 拓. 日本医療史. 吉川弘文館, 2006.

近世歴史資料集成には医学や医療に関するさまざまな有益な刊本などを復刻しており、私も時々眺めてみたことがある。今日は、久しぶりに締め切りを気にしなくていい日曜の朝で、未読本コーナーで強い存在感を出していた民間治療に関する書物をぱらぱらと眺める。とても面白いマテリアル。優れた研究はもう出ているのだろうか。

青木先生の記述によると、18世紀初頭の享保の改革の時期に、徳川吉宗のリーダーシップで日本の医療の大規模な改革が始まった。その中に、薬物の生産と輸入と流通に関する改革があり、庶民が中国や日本の医学書と系列を持つ疾病の治療の知識を持つようになったり、合理的な医療を手にするための知識、書物、一定の制度などが作られることになった。きっと、この流れの中で読み取るのが安全な道なのだと思う。ただ、医学書と系列を持つとか、合理的であるとか言ったときに、何をそういうのか、どこで合理性と非合理性が切れるのかということは、かなり立ち入った本気の分析が必要になるだろう。

もう一つ面白いことを。書物のフォーマットの問題である。民間治療本がどのような構成になっているのかという問題でもある。まず、症状モデルと呼ぶものがあるとすると、読み手は自分の症状を知り、そこから本を調べて、治療法を知るという道筋を想定することになる。このような本は、症状から調べることを前提にして作られているはずである。これをまず最初に出した理由は、医者に行くときのモデルをもとに作られたものだからである。医者にいくと、私はこのモデルで行動することが多い。お医者さんに症状だけを切り取って話して、必要な治療法を先方に判断してもらう。馬鹿で素直な患者である(笑)

この症状モデルで作られた本は、もちろんある。私が子供の頃に愛読していた『家庭の医学』は基本的にはこのフォーマットであった(その性的倒錯の章は特に何度も読んだが、その話に行くと話がずれるからしない)。しかし、民間治療関連の書物の名著は、意外にこのフォーマットで書いていない。『養生訓』のフォーマットは、社会と家族と人間と人体のフォーマットを説明しながら、そこに養生の洞察を埋め込んでいくという方式だし、松田道夫の『育児の百科』は、子供が生まれてからの時系列でフォーマットを並べてある。同じように、江戸時代の民間治療の書物のフォーマットは、現代の臨床モデルになっていないもののほうが多い。この部分は、調べて考えると面白いと思う。

症状にどんなものがあるか。西欧の類書と較べたときの大きな違いは、やはり熱 Fever という概念が非常に薄いことだと思う。疾病の名前でいうとペストとマラリア、概念の名前でいうと四元素説で、「熱」は西欧では大きな概念であった。それが、あきらかに欠如していると思う。

『萬方重實秘傳集』には、顔相術の話や、そろばんの珠ではなしをするシステムなど、面白いことが書いてあった。

立ち食いの駅そばについて

f:id:akihitosuzuki:20170722112126j:plain

駅そばを立ち食いで食べるのが好きだ。東京の立ち食いそばは、あまりにも安物だとか、そば色をしたうどんであるとか、色々と良くない真実があって、それほどいかない。あと、東京でそばを食べるなら、少しまじめになって座って食べることが多い。でも、他の街だと、立ち食いそばは主力の一つかもしれない。大阪にいくと新大阪のどこかのホームで立ち食いうどんを食べ、名古屋に行くと新幹線の駅のホームで立ち食いきしめんをたべる。どちらもかなり美味しい。本当ですよ。

駅そばの王者は、京都の新幹線コンコースのにしんそば「松葉」だと思う。京都駅の新幹線コンコースは、京都観光を30分でできる天国のような場所で、唐辛子を買って八つ橋を買って漬物を買って、にしんそばを食べて新幹線に乗ればいい。ここは座れるし、お酒とおつまみもあるし、着物を着た女性が「おいでやす」とか言ってくれる。学会の前によく人と会うところを見ると、かなりの人気がある。本店は京都の名所にあるとのこと。

精神疾患の写真と患者の経時的な人生について

Pearl, Sharrona. About Faces : Physiognomy in Nineteenth-Century Britain. Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2010.

第5章・6章が、19世紀後半のイギリスの精神医療における写真の利用を論じている。ヒュー・ダイアモンド、ジョン・コノリー、チャールズ・ダーウィンやフランシス・ゴールトンといった著名な精神病医や科学者などが、写真をどのように精神医療の研究に取り込んだかを分析している。

興味深いのが、著者が diagnostic photography などの語で表現している分析の視点。もともと写真はある時間の断面を切り取るのだが、そこに計時性があるエレメントを入れると、患者の精神病の解釈に「これまでの人生」という側面をもたらすことができる。だから、患者の長期にわたる貧しさを強調して貧困が精神病の原因であることを論じ、破れた恋が精神病の原因であることを論じるために、患者に黒のショールと花冠をつけた『ハムレット』のオフィーリアのような衣装を着させる。

 

 

f:id:akihitosuzuki:20170721084922j:plain

 

Pearl, Sharrona. About Faces : Physiognomy in Nineteenth-Century Britain. Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2010.

Chapters Five and Six deal with physiognomy in the context of psychiatry, focusing on the prominet images and texts of Hugh Welch Diamond, John Conolly, Charles Darwin and Francis Galton. One interesting analytical framework is the idea of what the author calls "diagnostic photography". Psychiatrists and photographers added crucial elements in the images of mad patients, in order to incorporate various meanings and messages into the photographic images and deliver a certain type of interpretation about the causes of mental illness and the present status of psychiatry. Since they wanted to emphasize the negative influence of poverty, they incorporated signs of poverty into the images of mad patients. Their stress on the effect of failure in love led to women who were dressed as an Ophelia with a black shawl and garland.