からゆきさんと狂気の唄

倉橋, 正直. からゆきさんの唄. 共栄書房, 1990.

「からゆきさん」と呼ばれる日本の売春婦がいる。出身は主として九州で、長崎県島原半島熊本県天草諸島などが多い。中国や東南アジアが中心で、ロシア(ソ連)やアメリカにも出張した。もともと貧しい背景で、過酷な労働条件にわが身をさらしており、悲惨な状態があまりにも多い。九州大学のカルテの古いものがあれば、梅毒などで診察されることがあるのかもしれない。

その中で、大連にわたった石井ナミという女性がいる。出身は博多で、悪漢に騙されて大連で酌婦となった。石井は病を得て、国元では母親が病気になり、石井は悪化するが、楼主は仮病だといって折檻を行っている。そこで「満州婦人救済会」に救われ、大連慈善病院に入院した。そこで、もと売春婦であった彼女が、悲愴な唄をうたっている。

窓を引き明け眺むれば
モーシ、モーシ、お月さん
内地にござる母(かか)さんは
無事か知らして下さんせ

このような狂乱した患者が唄を歌い続けていること。このパターンが福岡日日新聞の1906年9月12日に掲載されているとのこと。ちなみに、山室軍平という人物も同じ記事を残している。

21世紀のロンドンの日本食(笑)

www.lrb.co.uk

 

LRB のしばらく前の記事を読んでいた。もともとは、19世紀から20世紀初頭にかけて、ロンドンのレストランがどのように変わったのかとたどる学術的な本の書評である。第一次世界大戦がシェフやウェイターを帰国させて、それがロンドンの食事に与えた巨大なインパクトなど、とても面白い。ただ、19世紀と20世紀のロンドンでの変動と、1990年代に日本食がその姿を根本から変えてロンドンに現れたこと、そして現在のロンドンに日本食が与えているインパクトの並行性に何度も言及している記事でもある。後者は私がロンドンにいた6年間と重なる記事であるし、いまでもロンドンに行くとわりとよく日本食を食べるので(笑)、とても楽しい記事である。
 
ロンドンに行くと、もちろんイギリス料理を食べることもできる。ローストビーフかもしれないし、フィッシュ&チップスかもしれない。しかし、本当のことを言うと、私が食べるのは、インド料理、中国料理、イタリア料理、そして日本料理である。こちらの料理だと高級品はまず食べない。かなり庶民食になったものが圧倒的に多い。日本食だと、昔は Wagamama のラーメン、しばらく前は Wasabi の寿司セット、そして現在では理論的にはチキンカツカレー  chicken katsu curryである。最後のものはあくまで理論的なもので、まだ怖くて食べていない。まずいと思うなら安心できるけど、成立してしまったら日本食は何なのか、あるいは私は何なのかという深い問いが現れてしまう。うううううむ。

ベランダのカエル君

アマガエルは周りに自分の皮膚の色を合わせて、そこに溶け込むことができる。家のベランダに住み着いたアマガエルは、もちろんバラやハーブと一体化して緑色になることもできるが、基本的にはベランダと一体化しています。

 

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ベランダの壁と一体化するカエル君。正直な話、なかなかうまいです。

 

二十四節季の白露

少し遅れたけれども、9月8日は二十四節気の白露(はくろ)。白露は朝に草花につく水滴をあらわし、立秋の次候で登場した美しい言葉である。これは仲秋8月、建酉(けんゆう)の月の節気。太陽は黄経165度に達する。

初候と次候は野鳥の移動に関する美しい対比。初候は「鴻雁来」(こうがんきたる)。秋から冬の鳥である鴻や雁が北国からやってくるの意。「鴻」の意味だが、大きな水鳥のことらしい。次候は「玄鳥帰」(げんちょうかえる)。春夏の鳥が南に帰るの意味。春分初候に南より北上し、秋分の少し前にふたたび南に帰る。かくして鴻雁と玄鳥が整然と交代を終えるとのこと。末候は「群鳥養羞」(ぐんちょうしうをやしなう)。鳥たちが越冬の準備のために食べ物を保存し始めるの意味。「羞」は餌の意味。

子供っぽい話だが、自分の力が少し伸びたことを感じている。「これは仲秋8月、建酉の月の節気、黄経165度」の意味が少しずつ分かってきた。一方、「鴻」「玄鳥」「羞」などは、よくわかっていないか、全然わかっていません(笑)

「カフェー」とは何か

喜多, 壮一郎 and 猛 尾佐竹. 売淫、掏摸・賭博. vol. 第6巻, クレス出版, 2008. 近代犯罪科学選集.

1930年に日本で売り出された「近代犯罪科学選集」という面白いシリーズがあり、そこで売淫と掏摸・賭博の歴史を眺めた一冊がある。とりあえず目を通しておくが、昭和期の日本で人気が出始めた「カフェー」について説明があり、面白かったのでメモ。

大正年間は、公娼の衰微と私娼の激増である。1916年の警視庁令取り締まり規則は、江戸時代に完成された売淫形式を根本的に潰滅させた。大正以後における公娼制度は、支持階級の低下と法律的社会的圧迫のために、壊滅への道にありつつ、苦悶しているものといえる。反対に私娼の激増は、資本主義的文化現象として、文化欲望としての独占欲の対象として、現代人に適応した形式として批判された。もちろん、一概に私娼と称しても、表面は盛業にある職業婦人の場合もあるし、半公娼的状態にある玉ノ井亀戸におけるがごときものがある。これらについては他の章で述べたいので茲では省く。

昭和に入っての問題としては、公娼を脅かした私娼を、さらに脅かすものの出現である。東京大阪における「カフェー」の著しき発達はまさにこれである。これは、カフェーの女給の私娼化が質と量において優れているというばかりではない。形式それ自体が、単なる性欲執行だけの私娼よりも、より適応した性的娯楽の機能であるからである。「より適応した」という条件の中には、快適であること、安直であること、文化的であること、現代sh会生活の条件と一致すること、などが考えられる。 

教養研究センター基盤研究  文理連接プロジェクト 医学史と生命科学論 第4回、第5回、第6回のお知らせ

 

lib-arts.hc.keio.ac.jp

 

慶應義塾大学 日吉キャンパスにおける教養研究センターの「文理連接プロジェクト」。第4回、第5回、第6回のお知らせです。医療経済学の後藤先生、医療・疾病と文学の小川先生、歴史学の片山先生の研究報告になります。ぜひお出でください!

場所ですが、第4回、第5回は1階のシンポジウムスペース、第6回の片山先生のものだけは2階の大会議室です。

 

■第4回 10月8日(火)18:15~19:45 来往舎1階シンポジウムスペース

後藤 励(慶應義塾大学Rei Goto (Keio Univerity)
医療費の増加と医療の経済評価

■第5回 11月5日(火)18:15~19:45 来往舎1階シンポジウムスペース

小川 公代(上智大学)Kimiyo Ogawa (Sophia University)
フランケンシュタイン』とシェリーの天才論

■第6回 12月17日(火)18:15~19:45 来往舎2階大会議室

片山 杜秀(慶應義塾大学)Morihide Katayama (Keio University)
「日本イデオロギー」としての科学と技術―日本ファシズムにおける
「文系」と「理系」の混淆の仕方についてのイントロダクション

伊藤晴雨「責めの研究」

伊藤晴雨(いとう・せいう 1882-1961) は日本の画家である。責め絵の作成や、妻をモデルとした責めの写真で有名である。彼が書いた「責めの研究」という文章が面白いことを書いていて、それらをメモ。『世界の刑罰・性犯・変態の研究 』が1930年に刊行され、その復刻版が出ている。

基本的には、責めと苦痛において男と女は非常に異なった性向を持っているという男女二元論が非常に強い視点である。ここに、男は公の世界における責めと苦痛であり、女は私の世界での責めと苦痛であるという。公的な世界は、裁判の取り調べなどで、きちんとした秩序のルールに乗って相手に適切な苦痛を与えるという男性的な責めである。私的な世界は遊女屋などで遊女を女が責めるというような女性的な責めである。私的な責めのほうが、時間的には非常に長い。監禁と土蔵と座敷牢の話だから、憶えておく。ただ、正直言って、何がどうなるのかよく分からない。

もう一つが「実験」「観察」という科学的なレトリックを責めにあてはめている。自分自身が妻を縄で縛ったことは「実験」であった。科学の影響がある。しかし、その一方で、それだけに熱中することは「変態性欲」であり、それは頭脳に変化を与え、性格は大きく変わり、商人は破産、職工や芸術家は失業したり技術が劣化したりする。ちなみに、そのような変態性欲の学者は健忘症になるとのこと。

最後に、エピソードとしてメモしておくのが、日本の演劇と責めの場面の変化。日清戦争とともに日本の演劇は責めの場面が増えてくるとのこと。これはおそらく伊藤の個人的な人生の中で、日清戦争を経験したことと、演劇で責めの場面を見たことが重なっていたのかなと思う。もちろん、もしかしたら正しいのかもしれないけれども、私が議論をすることはちょっと無理である。