診断と患者の物語

 新着雑誌から「患者による物語」の位置づけに関する鳥瞰的な論文を読む。文献はGillis, Jonathan, “The History of the Patient History since 1850”, Bulletin of the History of Medicine, 80(2006), 490-512.

 この30年の新しい医学史のコアな問題の一つは、ベッドサイドにおける「患者の物語」の位置づけである。ミシェル・フーコーやロイ・ポーターを初めとする医学史の大物たちが取り組んできた問題で、私自身にとってもずっと関心の中心である。診断のさいに、医者は必ず問診をして患者に体の不調を報告させる。一方で聴診器や検査などの手段を用いて患者の意識を媒介しない新他情報を入手する。エピステモロジカルなステータスが違う二種類の情報が臨床の現場に存在し、医者はその二つを折衷させて診断を行う。近現代の医療の変化において、その二種の情報の位置づけがどのように・なぜ変化したかという問題である。フーコーが「どうしたのですか、という質問から、どこが痛むのですか、という質問をするようになった」とまとめたことで名高い変化である。

 この論文は、この長い系譜を持つ問題に対する新しい知見を記した重要な論文。1850年以降の医学教科書の記述を拾ってきたのがコアな資料で、その点では歴史の論文としては、かならずしも水準が高いわけではないけれども、非常に重要な洞察がある。聴診器などが診断技術として確立した1850年以降も、患者の訴えに耳を傾けるという行為は、現在にいたるまで重きを置かれ続けてきた。医者が耳を傾けることは、患者にとってエモーショナルな意味を持つ。しかし、医者にとっての科学的な意味があったわけではない。医者は患者による病気の記述に「混沌として無価値な」物語と、医者が注意深く析出できる「本当の」物語の二つを区別するようになった、と著者は言う。とても面白い問題が、ここに隠れている。