ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』

 出来の悪い連想ゲームのようで申し訳ないが、昨日のエントリーでチャンドス卿が出てきた(JNさんもヘンデルに絡めて書いていた)ときに、ホフマンスタールの「手紙」(邦題は「チャンドス卿の手紙」)の架空の著者であるチャンドス卿と関係があるのかしらと思って、岩波文庫をひっぱりだして調べてみたついでに、この短編を読んでみた。文献はホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』檜山哲彦訳(東京:岩波文庫、1991)。

 私は畑違いの人間だけれども「チャンドス卿の手紙」が文学史上有名なテキストだというのは想像に難くない。手紙は近代科学の父、フランシス・ベーコン宛に詩人のチャンドス卿が書いたという設定で、著者(チャンドス卿)は言語による表象の危機、そして文学と文明の危機をつづる。「ある判断を表明するためにはいずれ口にせざるをえない抽象的な言葉が、腐れ茸のように口の中で崩れてしまう」のである。近代的なエピステーメーに基づいた文学の終焉を象徴しているということなのだろうな。

 この手紙の著者がある種の精神病に「罹っている」ことが気になっている。Louis Sass の名著 Madness and Modernism もこのテキストを取り上げているが、このテキストで描かれている異常な精神は、分裂病(歴史上の概念としてこの言葉を使います)の初期症状のそれである。表象の危機と古い文学への決別を表明したこの作品が、精神病患者の一人称の語りの形式を取っていることはもっと注目されて良い。狂気になれば極彩色の幻覚の世界に飛翔できると夢見たロマン派の神話は、この時代の医学と文学の双方で
すでに破産していた。19世紀末から20世紀の精神医学において、精神病のコアは幻覚モデルからはるかに隔たっていたし、hitomidonさんがお好きなシモンズの狂気のアンチクライマックスは、文学においてもこの神話が破産していたことを象徴しているような気がして仕方がない。

 狂気が生み出してくれる幻覚への憧れに決別し、自分の言葉と世界、自分の言葉と精神との違和感を、狂人の一人称で語ることに新しい文学の可能性があると直感したホフマンスタールは、狂人の語りについてのモダニストな態度を象徴しているのだろうか?低人さんの辻潤の「発狂」は、そういう賭けだったのだろうか?