『性と性格』

 世紀末ウィーンの思想家、オットー・ヴァイニンガーの研究を読む。文献は、Sengoopta, Chandak, Otto Weininger: Sex, Science and Self in Imperial Vienna (Chicago: University of Chicago Press, 2000).

 オットー・ヴァイニンガーは、1903年に『性と性格』を出版し、その直後に23歳で自殺したユダヤ人である。「夭逝した天才」のイメージもつきまとって、当時の思想家や文学者たちに熱烈に賞賛された人物である。現在、彼の『性と性格』を読む人は少ないし、恥ずかしながら私も読んだことはない。しかし、医学史研究者や身体系フェミニズム(笑)の研究者ならば、誰でも彼の言葉を一つ知っている。研究者でなくても、若い人たちであれば、ジェンダー論か何かの授業で習ったという人もいるだろう。それが

「男性は男性性器を所有し、女性は女性性器によって所有されている」
(Der Mann hat den Penis, aber die Vagina hat die Frau.)

というインパクトがある文句である。男性の精神性を女性の身体性と対比させる19世紀の思想を象徴する言葉として、必ず引用される悪名高い文句である。このあいだ読んでいた本でも、ある偉いイギリスの女性史の大家がこの文句を引用して、しかもヴァイニンガーが「産科医」だと間違って書いていた。アクトンかクラークとでも勘違いしたのだろうか。

この研究書は英語で初めてのヴァイニンガー(以下W)についての非常に優れたまとまった研究書。Wの『性と性格』の関心の中心が、当時のドイツを揺るがせていた「女性問題」にあったこと。エルンスト・マッハが感覚の束としての自己概念を提出したのに対して、Wはカントの超越論的な自己論に、彼の女性論とユダヤ人・人種論の根拠を見出したこと。こういった事情から、「アーリア人男性には身体や感覚や欲望から独立した自己があるのに対して、女性やユダヤ人は自律的な自己を持っていないし、それにも値しない」という結論が引き出され、それが彼の有名な女性性器云々の議論の背景にある。このような時事的・哲学的な議論と同時に、当時の最先端の生理学・医学の知見も、Wの洞察のもとになっている。当時の性分泌腺の理論は、細胞原質に性がそなわっているという理論(これが、実はよく分からなかった)と統合されて、男性性と女性性は個人において混合したグラデーションを成すというWの思想を生み出している。また、出版されたばかりのフロイトとブロイアーの『ヒステリー研究』の二つの人格理論を発展・転倒させて、女性の本質がヒステリーにおいて現れると考えた。女性の人格の本質的な部分は優しさや忍耐強さであるが、身体の影響によるもう一つの自我が現れたのがヒステリーであるという捉え方ではなくて、女性の人格の本質的な部分はヒステリックであり、通常の生活では仮面をかぶっているという解釈である。そして当時のドイツ語圏の女性解放運動が「母性」に女性解放の足場を見出していたのに対し、母親になることは解放に至らないというポレミックを組み立てていた。

Wは凶暴とも言えるアンチフェミニストであり、ユダヤ人でありながら反ユダヤ主義者である。この研究書はその事実を全く否定していない。それと同時に、Wは非常に知的・学際的であり、複雑で独創的な思考が可能な若い思想家であった。当時の科学のテクニカルな文脈の中においてみると、その思想の「あや」は、私が想像していた以上に魅力的なものだった。