サドの精神病院


マルキ・ド・サド『ジュリエット物語 あるいは悪徳の栄え』上・下、澁澤龍彦訳(東京:富士見書房、1985)を読む。

 しばらく前にkobachou さんが書いていらした文学者の間でのサドの評価には暗いが、歴史の学者にとっては、サドは18世紀を体現している作家だということになっていて、私も読んだ限りではそういう印象を持っている。彼は、18世紀の思想と文化を、唯物論哲学という18世紀の道具を使って徹底的に破壊した。フランス革命がもたらした興奮も影響を及ぼしているが、革命への敵意のほうがより大きな影響を及ぼしている。作家や思想家として注目されたのが20世紀に入ってからなので、澁澤は「20世紀の古典」と呼んでいて、その判断はもちろん当たっているが、サドの倒錯は20世紀の倒錯とは全く違う。「倒錯であればSでもMでも男色でも何でもOK」というサドの作品は、Sだけ、あるいはMだけ、あるいは男性同性愛だけという限定的な形で、特定の性的な志向にアイデンティティを置く、クラフト=エビングが定式化した20世紀の性的倒錯とは、根本的に異なっている。

 サドの作品は、18世紀の色々な風俗・文化・思想を取り上げては、それを面白い仕方で転倒させてくれるので、歴史家としてはインスピレーションの宝庫になっている。例えば狂人収容院の問題。自身が30年近く監獄や精神病院で過ごしたわりには、サドの小説には精神病院があまり出てこないと思っていたが、この作品の中にそれに近いものが出てきた。短い一つのエピソードだが、サレルノの監獄の中に閉じ込められている狂人たちとのオージーである。典型的なサドの作品の登場人物である、司祭で男色家で残虐行為と乱交にふける男が監獄の管理人で、彼の導きで主人公のジュリエットたちは、狂人相手の性の狂宴にふける。自分を神だと思う男、キリストだと思う男、マリアだと思う女、独房に閉じ込められていた彼らを次々に中庭に出し、肛門性交し、鞭打ちや棘だらけの十字架への磔を行うシーンが、いつもの調子で描かれる。 この部分の狂人たちは、意外に「従順な」狂人たちであることは、もしかしたら重要な意味を持っているのかもしれない。 

画像はイギリスの画家・版画家、ジルレイのエロティックな体罰シーン。18世紀末の作品。後のヴィクトリア時代に、女教師コスプレの鞭打ちの愛好癖は English vice と呼ばれて広まったと言われている。