サドの人口論

 エロティカの仕事をした時の記事のアップが、しばらく続きます。

 サドの空想旅行記を読む。文献はマルキ・ド・サド『食人国旅行記』澁澤龍彦訳(東京:河出文庫、1987)。

 『アリーヌとヴァルクール』という長編小説の中から空想旅行記の部分を抜き出して訳出したもの。アフリカの食人国ピュテェア、南太平洋の美徳の国タモエの二つの国への旅行記が語られる。空想旅行記というのえてしてそうなりがちだし、サドの他の作品にも顕著な傾向だが、特定の登場人物による演説の形式で話が進む政治小説。食人国ではすっかり同国の風習に染まったポルトガル人のサルミエントが、美徳の国ではヨーロッパを歴訪してその政治と文化を反面教師として理想の国政を築いた島の王のザメが、それぞれの国の国制を説明する。

 ビュテェアの国では文字通りの弱肉強食が社会の原理であり道徳である。弱い存在である女は、奴隷の苦役をし、男の快楽に奉仕し、神々に生贄にされ、彼女たちの肉は食用となる。王のもとには、国の行政組織を通じて組織的に女が集められ、後宮には常に2000人の女がはべっていて、快楽だろうが生贄だろうが食用だろうが、女に不足はしない仕組みになっている。サドらしいディストピア像だけれども、私が今回読んで特に面白かったのは、その人口論である。

「いったい、生まれる子供の数が減るということが、そんなに大きな悪であろうか?・・・もし人間の数が一定量を超過した場合には、誰でも子供を生む自由、あるいは生まない自由を保証されるべきではないか?四六時中人口増殖を叫んでいるやつくらい滑稽なものはない。」

現代の日本の政府の少子化対策に反対する社会学者の口からそのまま出てきそうなこの台詞は、食人国の風習、特にその男色を擁護するサルミエントから出たものである。男色は自然にも反していないし、政治社会にも損失を与えないという論陣を張るときのロジックである。性と生殖についての現代的な考え方、特に生殖を<選択>できるという思想が、どういう経緯で形成されたのかということを考える時に、18世紀のリベルタン思想が果たした役割は、意外に知られていない。誤解がないように言っておくと、私は少子化対策の反対者を批判したり揶揄したりしたいわけではないけれども。