19世紀フランスの医療

未読山の中から19世紀パリ近郊の農村部の医療についての論文を読む。文献はAckerman, Evelyn, “Medical Care in the Countryside near Paris, 1800-1914”, Annals of the New York Academy of Sciences, no.412(1983), 1-18.

 パリ近郊の農村部に医療と公衆衛生が受け入れられていった過程を記した堅実な論文。いくつものヒントに富む。

 1805年にそれぞれの郡 (arrondissement) につき一人の流行病医を置くことが定められる。これは18世紀の医療行政 medical police の発展であって、郡医は地方の開業医と協力して、流行病の発生時に病人を治療して、必要とあれば無料で食料を与えたりする権限と義務を持つ。天然痘の種痘をするのも彼らの仕事であった。それだけでなく、彼らはフランス農村を「文明化」する任務も負っていた。19世紀前半の医師たちの報告は、フランス農民が(少なくとも医者たちから見たときに)自分の身体に無頓着で暴飲暴食し、キニーネ以外の薬は求めず、医者を不信の目で見ていたことを示唆している。医者は農民たちを軽蔑・嫌悪し、農民たちは医者を恐れ嫌っていた。

 この相互不信を背景にした1832年のコレラの流行は、パニックと言ってよいものを引き起こした。暴動、医者が毒殺しようとしているのだという噂。お決まりの光景である。もともと医者にかかろうという気があまりなかった農民たちは、コレラの時には医者にかかろうという気を全く失った。これに較べて、1849年のコレラ流行時は、ずっと農民たちは落ち着いていた。毒殺の噂も医者の襲撃もなかった。前年に設立された衛生委員会の指導や政策に対して、農民たちは比較的協力的であった。1850年代から必要なものには無料の医療が供され(十分ではなかったと思うけれども)、1860年代からのフランス農村の生活水準や識字率の向上を背景に、人々は自らの身体についてオプティミスティックな像を持ち始める。1880年代の細菌学革命はこの傾向にさらに助長した。細菌の発見とともに、農民たちは予防的な衛生工事などを要求するようになり、医者の介入を期待するようになる。一言で言うと、「医者を頼る民衆」が現れたのである。しかしその中でも、「病院」は受け入れられなかった。病院のベッド数や患者数などは増えているのだが、これは農民たちにとって極貧者だけが行く敗北の象徴であり続けた。