コレラ流行と日本医療の性格付け

明治261893)年に全国で天然痘赤痢6万人を超す死者を出していたころ、当時東大医学部で教えていたドイツ人の医師エルウィン・ベルツ駒込の避病院を訪れたときの印象をこのように日記に記した。

 

310日、学生たちと駒込天然痘病院を訪れた。醜態だ。400名の患者に、時として日に50余名の新患があるありさまなのに、これに対して、一部は無経験のものを含めて8名の医師と20名の看護婦である。冬だというのに破れ障子のバラック、ひどい!いったい東京市は病気の市民のために何をしているというのだ。コレラ・チフス・天然痘の伝染病!それでいて、貧しい人たちを、せめて大切に飼われている馬くらいの程度にでも、収容しておける病院一つすらない」

 

この記述に現れているのは、感染症の流行期に貧民を収容してまともに治療する病院が、文明開化の先端である東京において不在であることに対する憤りの感情である。その感情と、そのもとになっている知覚は、どのような歴史的な構造の中で作られたのだろうか。

 医療を供給する構造は、歴史的な要因・社会的な要因によってそれぞれの社会によって大きく変わり、ある社会の医療が、ある側面においては発達しているのに、別の側面においては未発達であるという特徴がある。そのため、その社会において医療がどのように広がっており、どこが充実しており、どこが不十分なのかということを考えないと、その社会における医療の充実を論じることができない。さらに、何と較べて充実しているのか、あるいは不十分なのかという比較の枠組みも、医療の充実と不足が知覚され判断されるときの重要な構成要素である。ベルツの日本の医療に対する知覚と怒りは、日本の医療が長期的に発達した構造と、19世紀末に経験した疾病の流行と、それを西欧の視点から見るという三つの要因が重ねあわされることによって成立している。

 江戸時代の医療、特に江戸後期から幕末にかけての医療は、開業している医者の数においては、大都市はもちろん地方部においてもかなりの充実を示していた。推算で500人から1000人に一人の割合で医者がいるという状況は、現在の数字(約500人に一人)に較べても、それほど悪い状況ではない。しかし、病院、それも貧民などの低所得層を収容して治療・ケア・社会コントロールを行う病院という西欧の病院の機能を果たす病院は、ほとんど発達していない状況であった。

そのような構造を持つ日本の医療と社会に、19世紀に襲いかかったのがコレラである。帝国主義の発展にともなって世界に広がるようになったコレラは、1822年の流行、1858年から60年の流行、そして1877年以降は毎年のように日本に流行して大きな被害を出した。その時に、上水と下水の状況がよくない地域に住むことが多い低所得層がコレラに感染するリスクが高くなったこと、また低所得者はそれぞれの世帯で治療はもちろん十分なケアやコントロールを得ることができないことから、低所得者層にコレラ患者が多発する状況となった。

 

低所得者層にコレラ患者が多かった事情は、江戸時代のコレラにおいても存在したはずであるし、いくつかの史料や研究は、そのような状況を示唆している。しかし、これが日本の医療の問題であると捉えられたのは、私見の限りでは明治期に入ってからであった。西欧の医療であれば、これらの患者を収容するはずの病院の数が少なく、キャパシティも少なく、設備も未発達であるという知覚は、西欧の医療と感染症対策との比較によって現れた。江戸時代と明治時代のコレラがもたらした状況そのものはさして変わりなかったはずであるし、江戸/東京における死者数でいえば、ほぼ間違いなく安政コレラの流行のほうが大きい。しかし、江戸の人々は、これを単なる大きな被害と考えただけで、日本の医療の欠陥であり、公権力にとっての恥辱であるとはみなしていなかった。

日本における感染症の流行に対応する西欧型の病院が欠けているという知覚は、日本医療が明治初期に持つようになった構造と、帝国主義の世界における低所得層をより頻繁に犠牲にする感染症の流行と、それを西欧の視点から見て解釈する姿勢の三者が重なったところに成立したのである。