医学生の放蕩と勤勉

 19世紀の医学生のイメージと実態が大きく変化したメカニズムを探る論文を読む。文献は、Waddington, Keir, “Mayhem and Medical Students: Image, Conduct, and Control in the Victorian and Edwardian London Teaching Hospital”, Social History of Medicine, 15(2002), 45-64.

 18世紀のイギリスでは、医療の需要の上昇に応じて、外科と薬種商を組み合わせたGP(general practitioner) が現れて増加した。これは、大学卒業が要求される内科医と違い、どちらも徒弟制度で養成されていた職業である。18世紀の半ばには、この徒弟修行に、ロンドンの大きな病院で提供されている講義や実習の履修を組み合わせてスキルアップすることが定着した。1815年の「薬種商法」が6ヶ月の病院での訓練を定めると、病院で医学生が学ぶ傾向はさらに拡大した。

 その結果出来したのは、親方に監督されていない状態で生活している十代後半の若く独身の男性が、刺激と誘惑に満ちた大都市に群れをなして集まるという事態であった。1820年代から20年ほどの間は、医学生のイメージはどん底であった。飲酒、放蕩、騒擾、暴力、犯罪、そして極めつけは解剖用の死体の盗掘。医学生は、他の全ての専門職の学生たちを合わせたよりもはるかに多い問題を都市に与える、悩みの種であるというイメージが定着した。医学生たちは、当時人々を捉えていた都市の堕落と危険を象徴する存在であった。そして、そこには、医療という人間の身体や死体に触ったりする行為には、人間の精神をすさませる何かがあるという、原始的・直感的な恐れと不安があった。

 これが、1860年代から、医者のステータスを上げる医療専門職の戦略の一環として、勤勉と道徳心に満ちた医学生というイメージが、医学校によって形成された。このイメージの変化の少なくとも一部は、現実に対応している。医学教育のカリキュラムが整備されて膨らんだ結果、学生にとっての自由時間は少なくなった。病院はアドホックに単発の実習を提供する場から、医学生たちが卒業後も忠誠を誓いアイデンティティを与える機関になった。(現在でもBart’s menというような言い方を聞く。)医学校はまた一連の規則を作って、怠惰と不出来を処罰するようになった。処罰されるような学生は少数ながら存在したが、こういった学生は例外的なものになっていった。

 この変化は、19世紀の中産階級のリスペクタビリティの上昇と軌を一にした動きであり、新しい勤勉で道徳的な専門職の理想―そして少なくともその部分的な実現―と合致していた。この、医師が信頼に値する倫理を持った専門職として確立していくプロセスの重要な部分は、医学校によって担われていた。

 ぎゃおすさんやおとぼけ女医さん、最近お見えになりませんが、realmedicineさんの学生時代に勝手に想いを馳せながら楽しんでまとめました。先生方の医学生時代はいかがでしたか?(笑)