『パリの秘密』

ユージェーヌ・シュー『パリの秘密』を読む。この19世紀のフランス小説の昭和32年に出た古い翻訳を、図書館相互貸借までして借りて読んだのは、19世紀のパリの病院を舞台にした場面で、当事の医学を正面切った批判した記述があるからである。結局、日本語訳には、必要な部分が翻訳されていなかったので、グーテンベルクで該当箇所の英訳を探して読んだ。

ユージェーヌ・シュー『パリの秘密』は、1842年から43年にかけてパリの新聞に連載されて大人気を博した小説。基本的には『水戸黄門』と同じで、ドイツの領邦の殿様がパリにやってきて、身をやつして下層社会に出入りして弱きを助け強きをくじく善行を行う勧善懲悪小説。最後には、死んだと思っていた自分の娘で、パリの街頭でその日暮しをしているけれども天使のように清純なフルール・ド・マリと再会するハッピーエンド。登場人物は、貧民たちも貴族たちも、正直で高潔なものと邪悪なものの二種類にはっきりと分かれている。マルクスはここに描かれている貴族の慈善に基づく社会正義の実現を空想的社会主義と批判したが、近代の大都市の下層社会の生活を描いて、ユゴーレ・ミゼラブル』やドストイエフスキーの作品にも影響を与えたと、解説にあった。

必要な箇所はグーテンベルクでは第3巻の18・19章だった。グリフォン医師という、パリの病院に君臨する医者がそこでは中心人物になる。名医で腕が立ち人物も悪くないが、医学研究に夢中になって、臨床で病気のことばかり調べて、患者を “subject” (対象)としてしか見ていない。 当事のパリでは、軍人・兵士用の病院には上級将校が訪ねてきて患者の訴えに耳を傾けるという仕組みがあったが、グリフォンが勤めているという設定の民間病院は、そのような査察の仕組みがなく、慈善病院で患者は貧民や社会的弱者ばかりだから、医者は好き放題のことができる。好き放題といっても、それは医学研究上の最大の自由という意味で、グリフォンは患者のプライヴァシーにはまったくかまわず、若い女性患者を多数の男子医学生の前で裸にするようなことも平気でする。患者を見ると、珍しい病気だといって遠慮なく興奮し、珍しい症例の病理解剖のチャンスがめぐってくると、それも遠慮なく喜ぶ。この「無遠慮な」医学研究主義は彼の学生にも伝染していて、ある女性患者の死体を学生に与えて解剖する許可を与えたときに、その学生は死体を「自分のもの」にするために、死体の腕にメスで自分のイニシャルを刻み込むシーンも描かれている。さらに、新しい治療法を試すために、学生たちがぎょっとするような危険なイオウの薬品を試すことを提案したり、あるいは対照実験すら行っていることが描かれる。

このグリフォン医師の回診の前に、患者同士が自分の身の上話を詳細にして、互いに同情しあう場面も長々と描かれていて、患者のよる自分の人生の語りと、医者が支配する臨床の言説を、これほどあざやかに対比した記述はないだろう。

これはフィクションだからもちろん気をつけなければならないけれども、ここではシューは小説家というよりも社会批評家として、地の声で語っている部分もあり、現実をふまえて批判しようとしていることは明らかである。学部から大学院にかけて、パリの臨床医学革命とその批判を教えるとき、これほどすぐれた教材はちょっと思いつかないほどである。

それ以外にも、登場人物は次々に発狂して死ぬし、遺伝病としての癲癇をめぐる恐ろしさがプロットの中心をなしているし、アメリカ原住民と白人の混血で、男を血迷わせる野生的で妖しい肉体の性的魅力を持つキャラクターも登場したりして、歴史資料としてとても豊か。 文学上の傑作かどうかは、微妙なところ(笑)