『医療の歴史』より「病院の歴史」・第二節の草稿

おそらく公の場でいうのは初めてだと思いますが、『医療の歴史』(仮題)という書物を書いています。1500年以降の西欧を軸とする医療の歴史で、過去30年ほどの新しい医学史研究の視点をできるだけ総合した書物を意図していて、私が書くだろう書物の中では、もっとも重要な一冊だと思います。全体で30章くらいですが、これまで二つの章の下書きを書きました。これが3つめの章で、その半分くらいの部分の下書きになります。みなさま、どうか、ご忌憚のない批判をお願いします。 病院の歴史 1. はじめに 2. 臨床教育の場としての病院 a) 中世の東ローマ帝国・イスラム圏・ヨーロッパにおける医学教育 b) 16世紀のパドヴァ・18世紀のライデンにおける内科学の転換 c) 18世紀から19世紀のロンドンの病院と外科の転換 3. 慈善を与える側からみた病院 4. 患者の側からみた病院 病院での臨床教育という制度は、もともと中世のヨーロッパにはなく、東ローマ帝国やイスラム世界の病院から輸入されたものです。もちろん中世のヨーロッパにも病院は存在し、そこでは医療も行われていましたが、医学教育の機能は持っていませんでした。しかし、ルネサンス以降には病院での臨床教育は医学教育の一つの目玉になり、イタリアのパドヴァ、オランダのライデン、そしてイギリスのロンドンという都市は、それぞれの都市の大学や病院で、優れた臨床教育を行って広い範囲から学生を集めました。このような数世紀の病院での教育の伝統をふまえて、18世紀末から19世紀初頭のフランス革命期以降のパリの病院では、病院医学の黄金時代が到来しました。パリの病院医学は、ミシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』とアーウィン・アッカークネヒトの『パリ、病院医学の誕生』という二冊の名著が描くように、西洋の医学における画期となっただけでなく、世界的な医学の歴史の視点においても、中国医学やアユールヴェーダ医学などの他の文化圏の高度な医学とは鮮明に異なった医学、すなわちヨーロッパに特徴的な医学が形成されます。今日は、病院での教育の歴史が、パリの臨床医学革命以前の数世紀間にわたって、どのような長期的・広域・構造的な変動を西洋の医学にもたらしたのかをお話ししたいと思います。 a) 中世の東ローマ帝国・イスラム圏・ヨーロッパにおける医学教育 通俗的な医学の歴史は、いまだに古典古代の栄光と中世の暗黒時代の対比という図式にとらわれている側面を持っている。たしかに、紀元前5世紀から紀元3世紀にかけてのギリシア・ローマの古典古代の医学が、ヒポクラテスやガレノスといった偉大な個人を生み出したのに対して、紀元4世紀から10世紀の初期中世は、そのようなビッグネームが現れなかったため、その重要性が見過ごされがちである。しかし、医療と医学教育上の重要な制度的イノヴェーションである<病院>が発生し確立したことは中世であることに十分に注目しなければならない。単に病気に罹った患者を治療して寝泊りさせる慈善の空間というだけでなく、その患者を素材にして医学の臨床教育を行う病院は、中世の東ローマ帝国において作られた。キリスト教の慈善の精神と高度な医学研究の理念が結びついた空間である。この制度は、中東やイスラム世界に拡散し、8世紀にはバグダッドやダマスカスなどのイスラム世界の大都市には、医学校の機能を持つ病院が作られている。12世紀には、東ローマ帝国コンスタンティノープルには、パンクラトール修道院が設立した優れた医学教育の設備を持った病院があり、その建物は現在でも観光名所になっている。病院を軸とした医学教育は、東ローマ帝国とイスラム圏という、地中海世界の北アフリカ部分、地中海沿岸の東側の地域、そしてメソポタミアとイランに至る地域に広がっていた。 それに対して、ローマ・カトリック教会の領域と重なるヨーロッパ世界では、病院は医学教育の機能を持たなかった。もちろん病院という制度自体は存在し、たとえば人口10万人程度だったフィレンツェでは1000年から1500年までの間に58の「ホスピタル」が創設されたが(その全てが「病院」と一致するわけではない)、それらは慈善としての医療の場であった。医学教育を担っていたのは、病院ではなく、大学とギルドという別の組織であった。 医学が大学という組織で教えられたことは、中世の医学に大きな影響を与えた。大学は、書物を軸にして理論的に洗練された読解を求める場であり、中世ヨーロッパの医学は、書物に基づいた学問的・理論的な営みという性格を持った。中世の西欧における医学教育の発端は、イスラムの文化圏に接していた南イタリアサレルノで11世紀に始まった医学校であり、そこでは、モンテ・カッシーノの修道院が知的ベースになって、東ローマ帝国のギリシア語文献やイスラム圏のアラビア語文献から、ヒポクラテス、ガレノス、イブン=シーナーなどの医学テキストがラテン語に訳された。12世紀・13世紀からは、各地に大学が作られて医学が教えられるようになると、古典古代のギリシア語の医学文献を発展させたイスラム文化圏の優れたアラビア語の医書がラテン語に翻訳された。西ヨーロッパにおいては、翻訳されたすぐれたテキストを読みながら医学を学ぶことが教育の一つの柱になり、医学の自然哲学的な側面を学ぶことが重視されたのである。 それに対して、理論よりも目に見える身体部分を扱う実際の手技が重要である外科は、大学の中で微妙な位置を占めることになった。ヒポクラテスにもガレノスにも外科についての記述はたくさんあるが、中世の大学においては、外科は総じて教えられないか軽視される傾向があった。たしかに、ボローニャ大学には外科の教授がおり、フランスのギー・ド・ショリアックなど外科のエリート医師もいたが、これらは、哲学・理論に主力がある大学という場にとっては異質なものであった。そのため、外科の教育を担ったのは、都市の手工業者が作った組織であるギルドとなった。ギルドの中で親方の地位を占める外科医が、徒弟を5年から7年の間の契約で教えて、徒弟は、一人の教師の実技を真似て学ぶという形態が一般的になったのである。 このように、中世のヨーロッパと地中海世界とイスラム圏において、医学教育は地理的な空間に従って異なった形をとっていた。東ローマ帝国やイスラム圏においては、病院が医学教育の柱であったのに対し、西欧においては、病院は、教会や修道院の慈善としての事業であったため、大学とギルドが医学教育の機能を果たしていた。さらに、大学とギルドのそれぞれの組織の正確に応じて、医学の理論的な側面、とくに体内の自然哲学を中心にした内科と、目に見える部分についての実技・手技に重点がある外科が、社会における異なった圏域で教えられている状況であった。 b) 16世紀のパドヴァ・18世紀のライデンにおける内科学の転換  この中世ヨーロッパの仕組みは、16世紀から現代にいたるまで、長い過程を経て構造的に変化していくが、その変化において、病院における教育が重要な意味を持った。まず、大学で教えられている内科学だが、ルネサンス以降の先進的な大学の医学部において革新が達成され、その革新が他の大学などにコピーされるという形で、中世とは異なった教育の仕組みがヨーロッパに広がった。16世紀の前半にこの革新を牽引したのはイタリアのパドヴァ大学であり、そのシステムをコピーしたオランダのライデン大学は18世紀の前半にヨーロッパ中から学生を集める組織となった。いずれの大学においても、病院における教育の集客力は重要であった。 パドヴァは、東西貿易の拠点であったヴェネツィアに近い国際性を持つ都市であり、パドヴァ大学は、1530年代から一連の改革を集中的に行った。その中で特に重要な三つは、解剖学、植物園と薬学、そして病院での教育である。解剖学は、かつては大学医学部で年に一回行われる特別行事であったが、パドヴァでは大学の通常の科目の中に組み込まれ、時間をかけて組織的に解剖学の講義と実習を提供するようになったこと、この仕組みの中から、近代解剖学を確立したアンドレアス・ヴェサリウスの『人体構造論』(1543)という記念碑的な豪華医学書が作られたことが有名である。植物園・薬草園については、1545年に植物園が作られ、現在でも「オルト・ボタニコ」としてユネスコの世界遺産になっている。 解剖学・植物園の改革と同じ時期に、病院を用いた臨床教育も確立している。その中心になったのは、1530年代に着任したジョヴァンニ・ダ・モンテという人物であった。ダ・モンテは、当時のパドヴァ大学で最も優れた教授であると言われた傑物であった。彼は古代ローマの医師であるガレノスを崇拝しており、その精確なテキストを復興するガレノス著作の刊行に携わっている。ダ・モンテの弟子の一人は、もしガレノスの魂が転生して現代によみがえったとしたら、それはダ・モンテに宿っているのだろうと絶賛している。古代文化を尊敬しそれを復元することを学問の軸だとみなす、いわゆる人文主義的な医学者であった。中世の大学はアラビア語からの翻訳テキストであったのに対し、ルネサンスになるともともとのギリシア語テキストが復興されることが目標となる。 このような古典医学を復古する目標と並立して、病院への臨床教育というイノヴェーションが行われた。ダ・モンテは、1540年近辺からパドヴァの聖フランシス病院で、実際の病人の前に学生を連れてきて、その病気について説明することを始めた。1543年には、ダ・モンテの症例の説明を聞いた学生が、これは17回目の病院訪問であると記録していることから、この時点ではすでに持続的な臨床教育が行われていることが明らかになる。ある例では、梅毒の症例について具体的な患者を素材にして学生たちに臨床で話し、そのまま梅毒という病気の説明に移っていくという、具体的な症例の観察と、抽象度が高い理論的な説明の組み合わせが行なわれている。このこと自体は、決してダ・モンテの独創というわけではなく、大学で医学の理論を学んだ学生が実地で訓練するために臨床で学ぶということを延長したものだが、ダ・モンテの臨床講義は水準が高く、当時発展していた印刷技術を用いて臨床講義が出版されたことなどを通じて、病院での臨床講義という制度が確立された。1551年に彼が死んだ後にも、パドヴァの教授たちによって継続され、1578年には正式に科目となった。その後に出版された学生の講義録を見ると、16世紀の末には、病院を日々回診して尿と脈の検査を行い、場合によっては死体を死後解剖してその原因を目で見て確かめるということが、パドヴァ大学の臨床教育の標準的な部分になっていたことが伺える。 これだけの組織的な臨床教育を受けることができた大学は、当時の西欧には存在しなかった。このように魅力的で集客力が大きい授業を持つパドヴァ大学には、当然のように外国人の学生が数多く留学することになった。著名な人物でいうと、血液循環の発見で有名なイギリスのウィリアム・ハーヴィーが1599年から1602年までパドヴァに留学している。留学といっても、すべての留学生がパドヴァで既定の全てのコースを学習するというのではなく、別の大学で他の科目を学んだうえで、パドヴァで1年か2年のあいだ臨床教育を学ぶという形式での留学が主流であった。この慣行は、大学にとって若干の問題も作りだしており、1597年には学生が教室で行われる講義に出ないという理由で留学を禁止しようとするが、主にドイツ人であった外国人学生の連盟がこの決定に抗議して、「この有名な大学に来た目標は、我々多くの学生にとって、医療の実地での教育のみではないだろうか。そのために、山を越え、多くの代償を払って、我々はここにきているのだ」といっている。パドヴァで行われていた病院における臨床医学の教育が非常に高く評価され、ヨーロッパ中から学生を集めていた。ダ・モンテの臨床講義が出版されたということが、その需要を間接的に物語っている。  パドヴァにおいて16世紀の前半に作られて世紀末には確立したシステムは、パドヴァに留学してその利点を学んだ数多くの医師によって、ヨーロッパの各地に持ち帰られて移植されることとなった。パドヴァのシステムの移植が長い期間をかけて成功し、18世紀の前半には臨床教育の効果もあってヨーロッパ随一の医学校となったのがオランダのライデン大学である。 ライデンの医学校の改革は、パドヴァの改革をコピーするという形で進む。すなわち、解剖学の常設的設置、植物園の設置に加えて、パドヴァ大学を1571年に終了してのちに教授となったヤン・ファン・ヒュルネが、1591年に臨床教育を提案する。この提案は実を結ばず、その後1636年にユトレヒト大学が新設されて競争者が現れたことに対応して、臨床講義を行う制度が作られた。ライデンにあった元修道院の聖カエキリア会が持つ病院の6つの病棟のうち、男性用を1つ、女性用を1つ、合計2つを大学での医学教育用に利用できるようになった。その後、17世紀を通じて臨床教育が行われていたが、必ずしも注目を集めていたわけではない。 しかし、1714年に、当時の教授であったヘルマン・ブールハーヴェが臨床講座を始めると、ライデンの状況は一変する。彼のもとでこの講座は大成功し、ライデンはヨーロッパじゅうから学生を集めるセンターとなった。18世紀の偉大なヨーロッパの医学教師たち、すなわちゲッティンゲンのハラー、ウィーンのファン・スウィーテン、ウプサラのリンネ、エディンバラのモンローなどは、いずれもライデンでブールハーヴェに学んだ人物であった。パドヴァにおけるのと同じように、この臨床講座は学生によって筆記され、海賊版の講義録となって出版された。その講義録によれば、ブールハーヴェは学期中は週に2回、大学から少し離れた病院にやってきて、門の前で待っていた学生とともに病院に入ってまずは一人一人回診をする。それから、一人の患者を選び、その患者を重点的に説明して、生活歴、病気の経過、症状、与えるべき治療などを解説する。具体的には、患者の身体に触れ、体温を確かめ、身体がむくんでいるかどうかを知り、吐いたものを実際に目で見て、治療を解説する。「諸君、私は診断をするのに十分な情報を与えた。まず食餌について。ビスケット、新鮮な肉に味をつけてローストしたものがふさわしい、そして時折ワインを一杯。しかし、ここは慈善病院なのだから、それにかわって、乾燥した穀物、ゆでた大麦などが貧しいものにはふさわしいだろう。この患者に適当な飲み物は、<ブランシュヴィックのマム>というビールであるが、もし裕福な環境であるのなら、ギリシアのワインとマルメロのジャムがふさわしい」という形で、病院の慈善患者で実習しつつ、修了後には富裕な個人を相手にした診療を行う学生に対応した講義がなされている。  ルネサンスから18世紀の前半は、それまで理論的な自然哲学の学習に主力があった大学の医学教育において、実習の要素が拡大していき、優れた実習を制度として持っている医学校が国際的な集客力を発揮した時代であった。解剖学や医薬の植物学に加えて、病院での臨床教育が大きな要素となり、パドヴァやライデンなどの大学は、隣接した病院で臨床講義を設置することが、ヨーロッパの医学教育の中心となった大きな要因であった。 c) 18世紀から19世紀のロンドンの病院と外科の転換  パドヴァやライデンの改革は内科を軸にしたものであり、外科にも影響がないわけではなかったが、外科の革新は別の形をとることがあったので、その模様を18世紀のロンドンの病院における医学教育の革新を例にとって説明しよう。 イギリス(イングランド)は、国内の産業を発展させ、海外ではフランスとの争いに勝って植民地を獲得し、世界の強国になっていく時期であった。この時期に、首都のロンドンには次々と病院が建設され、1750年までに、合計7つの一般病院 (hospital) を持つ一大病院都市になっていた。ロンドン以外にも病院建設の動きはイギリスの地方都市に急速に進展し、1800年にはイギリスの都市のほとんどが病院を持つという状況になっていた。これらの新設の病院は、教会や国家・市が経営していたわけではなく、もちろん、営利を目標にしたサーヴィス産業でもなかった。新設の病院は、篤志の人々の寄付を財源としており、寄付をする側から見ると、年間にある一定の金額を一口寄付すると患者を一人推薦できる仕組みなっていた。病院で働いている内科医・外科医たちは、週に1 回から3回程度、病院にきて患者を回診するということが主たる仕事で、規模が大きな病院においては、彼らを補助する内科医・外科医も存在した。病院の理念がそもそも慈善であるから、医療者たちには給与という形での支払いはなく、慈善事業への参与を通じてステータスを上げること、とくに病院の理事たちである貴族や大ブルジョワジーなどの有力者・富者と知己になることが目標であった。現在のように同じ専門職の中の相互の評価が昇進と成功を決めている時代ではなく、有力者たちの庇護(パトロネージ)が医者の成功を決めていた時代の社会的上昇の手段であった。 これらの病院群が、とくに外科の領域において、新しい医学教育の構造を提供することになる。1725年から1815年までにあいだに、1万1000人の学生が、何らかの形で病院で実習を行い、1750年代には年間100人程度が、18世紀の末から19世紀初頭には一年に300人から400人の学生が実習を行うことになった。この中の多くが外科の学生であり、1760年以降には75-80%が外科を学んでいた。この中には、1814-15年に外科の徒弟としてセント・バーソロミューズ病院で医学を学び、のちにロマン派の詩人として名を成すことになるジョン・キーツも含まれている。これらの学生たちは、病院という組織そのものに所属するというより、病院に勤務するそれぞれの外科医と契約を結び、彼ら個人に授業料を払って、その対価として病院における実習を認められた者たちである。「実習」にはさまざまな段階があり、自分の教師の回診についていくだけなのか、回診しながら行う仕事に参加できるのかという違い、また仕事の中でもどのような作業に参加できるのかによって授業料が変わり、より高額の授業料を教師に払えば多くを学べる仕組みになっていた。回診に従って教師の診療をみるだけなら年間20ポンド、外科医の手技や手術などの手伝いをするためには50ポンド、そういったすべてのことに参加することができるのが「徒弟」となることで、これは5年から7年で200ポンドから600ポンド払わなければならなかった。つまり、ロンドンの病院において外科を学ぶ学生の増加は、病院で診療する外科医を軸にして、それまでのギルドにおける個人の親方との契約のモデルに沿って行われたことになる。医者―教師の側からみると、一人の徒弟を育て上げるよりも負担が軽くなるので多くの実習の徒弟・学生を教える仕掛けを意味し、学生の側から見ると、自分の教育かキャリアのある段階において、1年間から2年間、実習をする場が提供されたということになる。 この仕組みを通じて、外科の教育が構造的に変化していく。当時の新聞広告を見ると、医学の「サイエンス」と「プラクティス」、すなわち学問的な知識としての部分と、実技・手技の双方が教えられると謳われている。外科においては、それまでの徒弟制度における実技・技能に主軸をおいた教育・訓練に加えて、体系的に整備された知識を授与する空間が病院で作られたのである。18世紀の後半から19世紀のロンドンの病院は、理論的な講義を教える医学校としての機能を持つようになり、毎年40クラス程度の講義が提供され、徒弟修業における実技だけでなく、それとならんで体系的な科学の講義を志向するような変化が生じた。単に書物の中で「医学とは科学と実技の融合である」と書くことではなくて、それを実現するような構造が社会に作られたのである。つまり、18-19世紀のロンドンにおいては、慈善組織として形成された病院を土台にして、数多くの外科の学生が理論と実技の双方を学ぶ、まるで医学校や大学医学部のようなものが自然に発生したということになる。この背景にはより大きな社会的な変化があり、そこには、専門技能を持つ治療者による医療サービスを消費する階層が現れ、それに応じて実用的な医療技能を身に付けようとする技能集団が現れたという経済に起源をもつ変化と、病院の理事たちが、そもそもキリスト教の慈善の理念に基づいた社会空間を、実用的・技術的な目標のために利用することにポジティヴであったという文化に起源をもつ変化の二つをみいだすことができるだろう。 病院における医学教育という現象を軸にして、中世の東ローマ帝国・イスラム世界にはじまり、16世紀のパドヴァ、18世紀前半のライデン、18世紀から19世紀初頭のロンドンにいたる広い地域における長期的な鳥瞰図を提示した。このような広い地域における転換の中で、中世のヨーロッパにおいては内科学と外科という異なった理念を持ち、別の職業・別の養成ルートを持っていた二つの営みが、近世には病院での教育を蝶番にして接近したものになっていった。医学のなかに、古典古代から現代にいたるまで存在している、理論と実践という二つの要素、あるいは学問と実技という二つの要素が結びつく構造が、病院での教育において作られたのである。中世のヨーロッパにおいては、この二つの要素が、大学という組織で教えられる内科と、徒弟修業で伝えられる外科という形で、異なったグループと異なった教育・就業のメカニズムに分割されていた。この状況から、理論と実践という二つの要素を結びつけ、内科と外科を接近させたのが、病院という社会の制度を利用した臨床教育という仕掛けであった。大学の内科医たちは、そのラテン語、自然哲学、知的な学問の伝統を保持しながら、病院において実習を行うことになり、外科医たちは、徒弟修業という中世以来の構造を保持しながら、病院において、徒弟修業以上のもの、すなわち理論としての医学を学ぶようになった。すなわち、内科学においても、外科においても、中世以来の伝統をある意味で保持したまま、病院という場を利用することを通じて、新しい教育のパターンが形成されていたのである。内科と外科の統合、理論と実践の融合というと、18世紀末から19世紀初頭のパリの病院における革命的な変化が思い出されるが、その革命性と並行して、近世のイタリア、オランダ、ロンドンの病院は、このような変化が長期的に起きたありさまを教えてくれる。 参考文献  Jerome Bylebyl, “The School of Padua: Humanistic Medicine in the Sixteenth Century”, in Charles Webster ed., Health, Medicine, and Mortality in the Sixteenth Century (Cambrdige: Cambridge University Press, 1979), 335-370.  John Henderson, The Renaissance Hospital: Healing the Body and Healing the Soul (New Haven: Yale University Press, 2006).  Susan Lawrence, Charitable Knowledge: Hospital Pupils and Practitioners in Eighteenth-Century London (Cambridge: Cambridge University Press, 1996)  G.A. Lindeboom, Herman Boerhaave: The Man and His Work, 2nd edition (Rotterdam: Erasmus Publishing, 2007).  Guenter Risse, Mending Bodies, Saving Souls: A History of Hospitals (Oxford: Oxford University Press, 1999)  Nancy G. Siraisi, Medieval and Early Renaissance Medicine: An Introduction to Knowledge and Practice (Chicago: The University of Chicago Press, 1990)  ミシェル・フーコー臨床医学の誕生』神谷美恵子訳(東京:みすず書房、1969)  E.H. アッカークネヒト『パリ、病院医学の誕生―― 革命暦第三年から二月革命へ』舘野之男訳・弘田隆也解説(東京:みすず書房、2012)