『医学の歴史』(仮)001 第一巻三章の一部

しばらく中断していた『医学の歴史』(仮)の執筆と連載を再開します。予定では2巻本で30章程度、カバーする時期は1500年から20世紀後半までになります。新しい医学史研究の成果を反映させた、わかりやすい入門的な内容とするつもりです。ここにアップしていくのは草稿的なメモになります。引用はお控えください。

 

ルネサンスの解剖学とその発展

 

はじめに―古代・中世の解剖学と近代解剖学の連続と断絶

 

 近代ヨーロッパの医学を、古代・中世のヨーロッパの医学と、中国やインドの他の文明の医学の双方と較べたときに、最初に現れた大きな特徴は、人体解剖を実際に行うことが医学教育の中に組み込まれたことであった。この動きが鮮明になったのは16世紀のイタリアの大学であり、それから解剖は急速にヨーロッパ各地に広まって医学教育のルーティンとなった。解剖された人体は、精密に描かれた写実的な図像に写し取られて、大型の豪華本から携帯用の医学書まで、さまざまな水準と目的の医学書に版画の技術を用いて出版された。

 このことは、解剖学が近代になってヨーロッパに入って忽然と現れたことを意味しない。解剖学という発想は、ある程度発達した医学にとって自然なものであったし、事実、ヨーロッパの医学は古代に解剖学の伝統を形成し、アラブ・イスラム医学を経由して中世には継承していた。人体の内部の仕組みを知ることは、外科医にとっては傷や骨折の治療に必須の知識であり、内科医にとっても、体の表面や外部に現れた症状などから、その原因を内部の臓器の機能にたどって診断することや、治療において瀉血の場所を選ぶために、有益な情報であった。古代ヨーロッパの医学においては、ガレノスが発達した解剖学の著作を残していた(むろん、ガレノスは人体そのものの解剖は行わず動物で代用していたが)。ガレノスを権威の一つとして受け継いだ中世のアラブ・イスラム医学においても、解剖学が重要なものであるという認識は継続していた。イスラム教も死後の肉体についての思想をキリスト教と共有し、死者たちは生きていた時の肉体をともなって最後の審判で神の前に呼ばれると考えていたため、ガレノスと同様に解剖されたのはサルなどの代用物であった。イスラム医学においては、骨格、神経、筋肉、動脈、静脈などの五つ(または九つ)の相において表現する解剖図が多く描かれて利用されていた。このイスラム医学が導入された11世紀のサレルノの医学校においては、多様な民族の文化を含んだイスラム圏の医学に基づいた洗練された医学の体系が教えられ、著しく簡略化されたものであったがガレノスの解剖学と、他のアラブ・イスラム医学の医学者たちの解剖学が導入されていた。13世紀末のヨーロッパの医学においては、古代ヨーロッパと中世のアラブ・イスラム文化から継承された解剖学の伝統が医学教育に再び根付いていた。(第二章参照)

このような解剖学の伝統がヨーロッパで変化し始めたのは、14世紀の初頭であった。ヨーロッパにおける最初の公の人体解剖の記録は、1315年頃にボローニャ大学のモンディーノ・デ・リウッツィ(Mondino de Liuzzi, ca.1275-1326)が行ったものである。これは、現実の人間の死体、具体的には死刑囚の死体を用いて解剖するものであった。ほぼ同時期のモンペリエ大学でも人間の死体解剖が定められ、1368年のヴェニスでも市当局が外科組合と内科医組合に少なくとも年に一回の解剖を行うように定めている。<1308年という記述もあり チェックします> イタリアの外では、スペインのリェィダで1391年に、ウィーンで1404年に、それぞれ初めての人体解剖の記録がある。

ここで、ガレノスとアラブ・イスラム圏の医学が自らに課した「本物の人間は解剖しない」という規則が破られたわけである。この理由として、宗教と司法の役割、そして逆説的に聞こえるがガレニズムの役割の三点が挙げられている。宗教的には、中世ヨーロッパでは聖人の身体の一部を聖遺物とすることや、遠方で死んだ家族の身体を解体して保存して故郷に送ることが行われていた。十字軍はこの慣習を拡大させている。これに対して1300年に教皇によって禁止されているが、この禁令はあまり効力がなかったと考えられており、14世紀には人体の解体は宗教的に重要な行為であり続けたのである。司法においては、外科医による検死という法的な手続きが、イタリア、フランス、ドイツの各都市で成立したことが重要である。殺害された人体を検証して、その死因を定めることが外科医の任務の一つとなった。このことも、人体を切り開くことからタブー性を取り除いた。ガレニズムについては、当時利用可能であったガレノスのラテン語訳やアラビア語の註釈からヨーロッパの医師が知ることができたガレノスの解剖は両義的な意味を持ち、人体の代わりに動物を解剖したことは、医学は解剖をするべきである、そしてできれば人体においてするべきであるというメッセージに解釈されたと推察できる。当時のスコラ哲学で隆盛していたアリストテレスの機能と目的への注目は、人体と臓器への興味を高めることにもなった。

しかし、人体を用いるようになったことが解剖学の新時代を切り開いたわけではないことにも注意しなければならない。14世紀から15世紀にかけて、人体の解剖学が広く行われていたとは言い難いし、その内容も古代以来の解剖学の知識に何か新しいものを付け加えるものではなく、それが図版に再現されることもなかった。医学部を持つ大学は1500年の時点ではxあったが、ルーティンとして解剖学の科目を持っていたのはボローニャパドヴァくらいのものであったし、これらの大学でも、一年間に男女各一体の死体を供給する程度であった。解剖学が医学部の中で占めている地位は低いものだった。前述のデ・リウッツィも、ボローニャ大学の職名で言うと解剖学の教授ではなく実践医学の教授であり、解剖学が正規の教授職として設置されるのは、最も早いパドヴァにおいてx年であった。また、解剖学の知識はガレノスの要約やその註釈などの書物に書かれたものの再現であり、解剖書に付された図像は、現実に見られた人体を再現するものではなく、言葉による記述を模式的に表現するものであった。この時期の図像を粗雑で間違ったものだとネガティヴに解釈することは、図像の機能を写実と誤解した批判である。レオナルド・ダ・ヴィンチがx年付近に実際に人体を解剖し、それを観察して描いたスケッチが、その美しさと洗練された技術にもかかわらず、現実の人体と対応しない間違った学説を再現していることは、解剖図譜が言葉による解説を模式するものであったことを象徴している。