ルネサンスの解剖学とその発展
はじめに―古代・中世の解剖学と近代解剖学の連続と断絶
近代ヨーロッパの医学を、古代・中世のヨーロッパの医学と、中国やインドの他の文明の医学の双方と較べたときに、最初に現れた大きな特徴は、人体解剖を実際に行うことが医学教育の中に組み込まれたことであった。この動きが鮮明になったのは16世紀のイタリアの大学であり、それから解剖は急速にヨーロッパ各地に広まって医学教育のルーティンとなった。解剖された人体は、精密に描かれた写実的な図像に写し取られて、大型の豪華本から携帯用の医学書まで、さまざまな水準と目的の医学書に版画の技術を用いて出版された。
このことは、解剖学が近代になってヨーロッパに入って忽然と現れたことを意味しない。解剖学という発想は、ある程度発達した医学にとって自然なものであったし、事実、ヨーロッパの医学は古代に解剖学の伝統を形成し、アラブ・イスラム医学を経由して中世には継承していた。人体の内部の仕組みを知ることは、外科医にとっては傷や骨折の治療に必須の知識であり、内科医にとっても、体の表面や外部に現れた症状などから、その原因を内部の臓器の機能にたどって診断することや、治療において瀉血の場所を選ぶために、有益な情報であった。古代ヨーロッパの医学においては、ガレノスが発達した解剖学の著作を残していた(むろん、ガレノスは人体そのものの解剖は行わず動物で代用していたが)。ガレノスを権威の一つとして受け継いだ中世のアラブ・イスラム医学においても、解剖学が重要なものであるという認識は継続していた。イスラム教も死後の肉体についての思想をキリスト教と共有し、死者たちは生きていた時の肉体をともなって最後の審判で神の前に呼ばれると考えていたため、ガレノスと同様に解剖されたのはサルなどの代用物であった。イスラム医学においては、骨格、神経、筋肉、動脈、静脈などの五つ(または九つ)の相において表現する解剖図が多く描かれて利用されていた。このイスラム医学が導入された11世紀のサレルノの医学校においては、多様な民族の文化を含んだイスラム圏の医学に基づいた洗練された医学の体系が教えられ、著しく簡略化されたものであったがガレノスの解剖学と、他のアラブ・イスラム医学の医学者たちの解剖学が導入されていた。13世紀末のヨーロッパの医学においては、古代ヨーロッパと中世のアラブ・イスラム文化から継承された解剖学の伝統が医学教育に再び根付いていた。
このような解剖学の伝統がヨーロッパで変化し始めたのは、14世紀の初頭であった。ヨーロッパにおける最初の公の人体解剖の記録は、1315年頃にボローニャ大学のモンディーノ・デ・リウッツィ(Mondino de Liuzzi, ca.1275-1326)が行ったものである。これは、現実の人間の死体、具体的には死刑囚の死体を用いて解剖するものであった。ほぼ同時期のモンペリエ大学でも人間の死体解剖が定められ、1368年のヴェニスでも市当局が外科組合と内科医組合に少なくとも年に一回の解剖を行うように定めている。<1308年という記述もあり チェックします> イタリアの外では、スペインのリェィダで1391年に、ウィーンで1404年に、それぞれ初めての人体解剖の記録がある。
ここで、ガレノスとアラブ・イスラム圏の医学が自らに課した「本物の人間は解剖しない」という規則が破られたわけである。この理由として、宗教と司法の役割、そして逆説的に聞こえるがガレニズムの役割の三点が挙げられている。宗教的には、中世ヨーロッパでは聖人の身体の一部を聖遺物とすることや、遠方で死んだ家族の身体を解体して保存して故郷に送ることが行われていた。十字軍はこの慣習を拡大させている。これに対して1300年に教皇によって禁止されているが、この禁令はあまり効力がなかったと考えられており、14世紀には人体の解体は宗教的に重要な行為であり続けたのである。司法においては、外科医による検死という法的な手続きが、イタリア、フランス、ドイツの各都市で成立したことが重要である。殺害された人体を検証して、その死因を定めることが外科医の任務の一つとなった。このことも、人体を切り開くことからタブー性を取り除いた。ガレニズムについては、当時利用可能であったガレノスのラテン語訳やアラビア語の註釈からヨーロッパの医師が知ることができたガレノスの解剖は両義的な意味を持ち、人体の代わりに動物を解剖したことは、医学は解剖をするべきである、そしてできれば人体においてするべきであるというメッセージに解釈されたと推察できる。当時のスコラ哲学で隆盛していたアリストテレスの機能と目的への注目は、人体と臓器への興味を高めることにもなった。
しかし、人体を用いるようになったことが解剖学の新時代を切り開いたわけではないことにも注意しなければならない。14世紀から15世紀にかけて、人体の解剖学が広く行われていたとは言い難いし、その内容も古代以来の解剖学の知識に何か新しいものを付け加えるものではなく、それが図版に再現されることもなかった。医学部を持つ大学は1500年の時点ではxあったが、ルーティンとして解剖学の科目を持っていたのはボローニャとパドヴァくらいのものであったし、これらの大学でも、一年間に男女各一体の死体を供給する程度であった。解剖学が医学部の中で占めている地位は低いものだった。前述のデ・リウッツィも、ボローニャ大学の職名で言うと解剖学の教授ではなく実践医学の教授であり、解剖学が正規の教授職として設置されるのは、最も早いパドヴァにおいてx年であった。また、解剖学の知識はガレノスの要約やその註釈などの書物に書かれたものの再現であり、解剖書に付された図像は、現実に見られた人体を再現するものではなく、言葉による記述を模式的に表現するものであった。この時期の図像を粗雑で間違ったものだとネガティヴに解釈することは、図像の機能を写実と誤解した批判である。レオナルド・ダ・ヴィンチがx年付近に実際に人体を解剖し、それを観察して描いたスケッチが、その美しさと洗練された技術にもかかわらず、現実の人体と対応しない間違った学説を再現していることは、解剖図譜が言葉による解説を模式するものであったことを象徴している。
このような中世の解剖学の伝統にかわって、16世紀に新しい解剖学のモデルが形成された。この解剖学の大きな変動は、人体の構造についての新しい知見が得られ、それが精密な図譜によって表現されたことにとどまらず、解剖学が新しい<劇場>の中でその成果を発信し、その成果が同時代の文化と社会の中で意味づけが行われるという広く深い現象であった。その変動を理解するために、ルネサンス(文芸復興)と解剖学を結びつける必要がある。
ルネサンス医学と古典復興
ある時代の医学は、その時代の文化的・社会的な文脈から切り離して理解することはできない。本書の通奏低音ともいえるこの主題は、16世紀のイタリアの医学において鮮明で直接的な仕方で現れる。16世紀においては、解剖学にとどまらず医学全般が、「ルネサンス」と総称される同時代の文学・絵画・彫刻・建築などの芸術における革新運動と、<古典の復興を通じた革新>という特徴を共有していた。ダ・ヴィンチの絵画もミケランジェロの彫刻もブルネレスキの建築も、ギリシア・ローマの古典古代の文明をモデルにして、自らを直前の時代である<中世>から切り離そうとした。それと同様に、16世紀の医学の先端的な革新は、古典古代の医学に還ろうという運動の中で達成されていた。
医学における古典復興の焦点となったのは、16世紀から見ると1000年、あるいは1500年以上も遡る時代に活躍したヒポクラテスやガレノスのテキストであった。彼らが用いたのはギリシア語であり、それまでのイタリアなどの西ヨーロッパにはギリシア語の知識はほとんど存在しなかったが、国際関係の変化によって西ヨーロッパの学者たちもギリシア語を読むことが可能になった。すなわち、1453年に東ローマ帝国のコンスタンティノープルがオスマン=トルコに攻略されて、当地の学者たちが西ヨーロッパに逃げてきたため、彼らとともにギリシア語を読む能力と写本が伝えられたのである。そのため、14世紀のペトラルカやボッカッチョに代表されるようなラテン語に中心をおいた古典復興とは異なる、ギリシア語に重点をおいた新しい古典復興運動が興隆することとなった。
このギリシア語に基づいた医学のルネサンスに最も貢献したのは、フェラーラ大学の教授で、エラスムスとも交友があった優れた人文学者のニコラウス・レオニチェーノ(Nicolaus Leoniceno, 1428-1524)であった。レオニチェーノによれば、ギリシア語の知識は当時の先端的な医学研究にとって必須であって、ギリシア語の知識がない医者は、戦場にはいる以前に既に敗れたも同然であるとまで言われた。ギリシア語の知識を通じて、医学の伝統とアイデンティティを文化的に再構成する作業が行われ、そこでラテン語に基づく中世医学とアラビア語に基づくイスラム医学が攻撃された。レオニチェーノが1492年に出版した『医学におけるプリニウスと多数の著者の誤りについて』は、ギリシア語至上主義を表明した書物であり、ローマの時代にプリニウスがラテン語で書き、薬学を含めて百科事典的な書物であった『博物誌』を批判的に検討している。プリニウスは薬用植物の名前をギリシア語からラテン語へと翻訳するときに多くの過ちを犯したと主張している。アラビア語に対しては、かつて「医学の王」と呼ばれたアヴィセンナの『正典』も、それがギリシア語そのものではなくアラビア語へと訳したものであるからという同じロジックに従って、医学の最高権威の座を追われた。
文化的な改革であるギリシア語の重視と重なったのが、当時の巨大な技術革命である印刷術であった。15世紀の半ばに発明されたこの技術は、書写の過程における過ちの可能性を排して、全く同一のコピーを何百部と作ることができるテクノロジーである。この先端技術が、正確なテキストの確定を重視する医学における人文主義と共鳴したのは当然のなりゆきであった。ギリシア語の医学テキストの出版や、ギリシア語からのラテン語訳と注釈書の出版は1520年代の半ばには一つの頂点に達している。1525年に、ガレノスの著作のギリシア語全集が出版され、ヒポクラテス集成の最初の人文主義的ラテン語訳も出版された。翌1526年にはヒポクラテス集成の最初のギリシア語版が出版された。ヒポクラテスとガレノスのギリシア語全集は、それまでアリストテレス、プラトン、ホメロスなどのギリシア語版を出版してきたヴェネツィアのアルディーネ出版によるものであり、これらの大規模な校訂・出版のプロジェクトの構想にはレオニチェーノを始めとする人文主義的医学者たちが関わっていた。ギリシアの古典医学の中でも特に注目されたのはガレノスで、16世紀に出版されたさまざまなガレノスの著作を合計すると540点 [check!] にものぼるという。
これらの「言葉」にまつわる16世紀の医学の新しい駆動力は、言葉の中に自閉するのではなく、「事物」の世界への志向も含んでいた。人文主義の医学が、語学の習熟、原語によるテキストの校訂、そして精確なテキストの出版などを含んでいたが、同時にそれらの言葉が指し示す「事物」への強い関心も表現された。たとえば、レオニチェーノが主導した人文主義的な医学の運動は、特に、薬草・病気・身体の部位の名称の三つの分野について重要な役割を果たした。テキストを精確に理解することは、ある言葉が厳密にはどの事物を指すのかを理解することでもある。後者の理解を欠くと、効かない薬草を処方することになったり、病気の治療法を誤解したり、治療をする部位を間違えるなどの致命的な間違いを犯すからである。この精神に従って、ピエール・ブリソ (Pierre Brissot, d.1522) がはじめた瀉血をめぐる論争は、瀉血を行う部位について、アヴィセンナの解釈とヒポクラテスやガレノスのギリシア語原典の食い違いを指摘し、後者の正当性を擁護するものであった。また、レオニチェーノの影響を直接に受けたフェラーラの医師たちは、ローマ時代のギリシア語の本草書であるディオスコリデスの『本草論』(Materia Medica) の写本を発見して編纂・出版したが、その企画は、古代医学の本草書に記された植物を特定するためにヨーロッパ各地を訪問し、植物の標本を収集することを伴っていた。彼ら人文主義的な医学者たちの活動は、古代医学のテキストを精確に復元すると同時に、それが経験的な事物とどう対応するのかを確定する作業を含む、言葉と事物の双方に関心をもち、その間を往復する医学運動であった。
解剖学における「言葉と事物」
言葉と事物の双方にまたがる医学の改革、あるいは文献主義と経験主義の二つの根拠を参照するルネサンス医学の中で、もっとも顕著な革新性を示したのは解剖学であった。言葉と事物の二つの面を象徴しているのが、当時の解剖学講義を描いた二つの図版である(図3-1、3-2)。図3-1は、中世からルネサンスの解剖学講義を描いたものとして名高く、医学史の教科書などでしばしば用いられるものであるが、もともとは、さまざまな医学テキストを一冊に集めて1493年にヴェネツィアで出版された『医学選集』(Fasciculo di medicina) におさめられて、解剖学の章の冒頭に掲げられている。図の中央上部で高い台で座って正面を向いている人物(A)が解剖学を教授する人物であり、前景にそれを補佐する人物(C-E)たちと死体 (F) が描かれていると解釈されていた。この解釈によれば、教授というこの場における最高位の人物が、解剖という手仕事を低位の助手たちに任せ、死体から目を離して書物の読み上げに専念していること、すなわち書物と言語に重点を置いた解剖講義の特徴が描かれていることになる。
しかし近年の研究は、解剖講義について全く異なった解釈も可能であることを示している。別の解剖講義を描いた図版では、教科書を読み上げる人物は画面の右端に追いやられて周縁的な位置を与えられ、それにかわって、画面中央には、死体を指し示している人物が威厳ある仕方で描かれている(図3-2)。この図版からは、教科書を読み上げる人物ではなく、事物を指し示す人物がより高位の医学教師であるこという、前述の解釈とは正反対の意味が読み取れるだろう。そして、現在の歴史学者たちは、図3-2のほうが現実の解剖講義により近いものだろうと考えている。パドヴァ大学の解剖学講義のあり方を定めた規則によると、教科書を読み上げる人物と、その読み上げに対応して死体の臓器などを指し示す人物という二人の教師が指定されているが、後者は正規の大学医師であるのに対し、後者は正規外の医師であると明示されている。すなわち、図版3-1でいうと、もっとも高位の人物は、教科書を読み上げる人物(A)ではなく、死体のかたわらに立って棒で死体を指し示している人物(D)なのである。中央上段の講壇に座って図版に君臨するAの人物が、複数の人々に交じって描かれているDの人物よりも序列が低いというのは、見た目の印象と大きく違うが、これは、この図版の製作過程で、当時の通常の大学講義をあらわす構図、すなわち教授自身がテキストを読み上げてそれを注釈するという構図にあわせたものだろうと推測されている。
解剖学講義を描いた二枚の図版が、その構図の中心の置き方において大きく異なっていることは、当時の解剖学が二つの焦点を持っていたことを示唆している。一つは文字で書かれて読み上げられる解剖学の書物であり、もう一つは指し示されて目で見られる死体である。書物と解剖された死体という二種類の異質な<テキスト>が解剖学という空間に並び立っていた。そして、この二種類のテキストを新たな緊張関係におく書物が、人文主義的なギリシア医学テキストの収集と校訂の進展の中で発見されていた。1531年にその一部がギリシア語からラテン語に訳されたガレノスの『解剖学の手続きについて』という書物である。この大部な著作は、骨格から始めて筋肉、神経などを細部にわたって精密に論じた、ガレノスの解剖学の集大成というべき書物である。その書物の中でガレノスは、人体解剖を行えなかったため、動物(サル)で代用したことを読者に告げ、実際に人体を解剖して自分の目で確かめるのが望ましいと主張した。すなわち、この新たに発見されたガレノスの書物は、自らの著作に従うことを喧伝していたのではなく、人体というもう一つの<テキスト>との照合を通じて、それ自身を改訂することを要求するダイナミズムを内に持っていたのである。16世紀の人文主義的な医学が発見したガレノスは、硬直した権威への盲従ではなく、人体というテキストを参照して自己の教説を批判しくつがえす方法を明示していたといってもよい。
ヴェサリウスの『人体構造論』
ギリシア語のテキストに基づくことと、人体を写実的に写し取ること、この二つの方向性は、16世紀の解剖学者たちが表現している。たとえば、ギリシア出身のアレッサンドロ・ベネデッティ(Alessandro Benedetti, d.1512)は、ギリシア語の著作に基づいた解剖学を1502年に唱え、ボローニャで教えたベレンガリオ・ダ・カルピ (Berengario da Carpi, c.1460-c.1530)は、観察されたものに基づく解剖学という理念を1521年に出版された著作で提唱している。これらの著作で表明されている発想にもとづいて、それを記念碑的な著作としたのは、パドヴァ大学の解剖学の講師であったアンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius, 1514-64)があらわした『人体構造論』である。
ヴェサリウスはブリュッセルに生まれ、ルーヴァンでラテン語とギリシア語の人文主義的な教育を受けた後、当時の人文主義的医学のメッカの一つであり、ガレノスの復興運動が盛んであったパリ大学で医学を学び、同地の解剖学者の助手をして解剖の基礎を学んだ。1537年にパドヴァの講師として招かれて学位を取得し、解剖学の講義をする資格を得る。当時のパドヴァは、ヴェニス共和国の支配下にはいり、コスモポリタンな国際商業都市の大学町として繁栄していた。そして、パドヴァの医学教育の改革の精神を駆動していたのは、フェラーラから引き継いだ、言葉と物の対応を正しいものにする人文主義的なプログラムだった。パドヴァ大学は、ギリシア医学のテキストを復興するともに、市の病院を用いた臨床教育を行って医学生に患者を実地に観察させ、本草学の研究のために植物園を建設して(この植物園は現在ではユネスコの世界遺産となっている)、ディオスコリデスには記されているがイタリアには自生しない植物を収集・栽培した。
パドヴァで解剖講義を始めた直後の1538年にヴェサリウスが出版した『解剖図譜六葉』は、肝臓、血管、生殖器、骨格などを描いたものである。この図譜集の骨格図には、ある骨の名称をラテン語、ギリシア語、アラビア語、ヘブライ語などで特定して記されていることに、ヴェサリウスが受けてきた人文主義と人文主義的な医学の影響がはっきりと認められる。この段階ではまだヴェサリウスはガレノスの細部を踏襲して、ガレノスがサルの脳に観察して記述したが人間の脳には実在しない組織などを描いているが、この書物の出版後から、ヴェサリウスが<二種類のテキスト>をつきあわせて対照する作業をインテンシヴに始めていたことが、パドヴァでのヴェサリウスの解剖講義を受けたあるドイツ出身の医学生の日記から読み取れる。その医学生は、1540年の日記に、死体の脇に立って講義したヴェサリウスのもようを次のように記している。
[ヴェサリウスは]、諸君に、脇腹の痛みに対する瀉血について最近医者たちの間で大きな議論が起きているが、この問題について私の理論が正しいことをお見せしよう、そして私が最近出版した書物が正確であり、この身体と対応していることを証明しよう、大静脈 [vene cava check!!] から枝状の血管が出て肋骨をめぐり、胸部全体に栄養を行き届かせている様子を見せよう、と言った。彼は、彼が最近出版した小さな書物と『図譜』で出版した絵を見せて、それを目の前にある死体と較べた。そして、確かに、それらは完全に対応した。私はすぐ側に立っていたので、自分自身の目で見ることができた。これは、昨今の外科医や [ ボローニャ大学の教授である] クルティウスの意見とは違うけれども、私はヴェサリウスの小著を読み、脇腹の痛みに対しては、どの静脈を開いて瀉血しなければならないかを理解した。
ここで記されているのは、上でも触れた瀉血論争に関するものであるが、この場面は非常に多くのことを教えてくれる。まず、ヴェサリウスの講義においては、出版されたテキストと、学生たちが目にしている死体が、文字通り並べてつきあわされ、両者を照合しながら教えられている。そして、<図版>が比較の焦点になっていることも注目しなければならない。図版は、書かれている言葉の模式図という性格に加えて、現実の死体を的確に写しているかどうかという機能も担わされており、解剖された死体と較べられていることにも着目しなければならない。さらに、ヴェサリウスは解剖を基礎にして、治療法における論争という実用医学の問題を裁定しようとしていることにも注意しなければならない。この三つの点、すなわち、解剖を通じて死体と照合された書物を書くこと、図版に注意を払うこと、解剖学を臨床医学に有用な基礎学問とすることが、ヴェサリウスが1543年に出版した『人体構造論』によって達成したことであった。
『人体構造論』にとって、図版は極めて重要な意味を持った。それは言葉による説明を模式化したものではなく、現実の人体を精密に写す高度の写実性を期待されるものであった。当時の解剖学書の図版は、しばしば解剖学者自身の手によるもので、『解剖図譜六葉』の中にはヴェサリウス自身の手による比較的シンプルな図版もあったが、『人体構造論』においては、ヴェサリウスは多くの図版をプロの画家に図版を依頼した。その画家は、著名な画家のティティアーノ(Tiziano Vecelli, c1488-1576)のスタジオで仕事をしていたカルカール(Jan Steven van Calcar, c. 1499–1546) であるとされている。カルカールにとどまらず、ルネサンス期の画家たちは、人体の写実的な表現のために解剖学を学ぶことが必要であると考えており、レオン・バッティスタ・アルベルティの芸術理論書は芸術家が解剖学を学ぶ必要を説き、前述したようにダ=ヴィンチはフィレンツェの病院などから得た死体を解剖して数多くの素描を描き、ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti, 1475-1564)は、自らも解剖を行っただけでなく、解剖学者のレアルド・コロンボ(Realdo Colombo, 1515-1559)との交際があった。『人体構造論』の高度な図版の背後には、15世紀末から16世紀にかけて成立した、ルネサンスの絵画と解剖学の密接な関連があったのである。
この図版の版木をアルプスを越えてバーゼルに運ばせ、同地のギリシア語教授のヨハネス・オプロピウスに図版の取り扱いに関して詳細な指示を与えて出版させたのが1543年である。フォリオ版で合計600ページを超え、200葉の図版を持つ7巻本の巨大な書物は、神聖ローマ皇帝カール五世に献呈され、ほぼ同時に出版されたこの書物の簡易版は皇帝の息子であるスペイン王フェリペ二世に献呈された。その規模・質とそれを取り巻く環境において、『人体構造論』のバロック的な壮麗さは群を抜いていた。その壮麗さを象徴するのが、ヴェサリウスが『人体構造論』の扉絵である。(図3-3)古典古代の円形劇場を思わせる建築の中心に、妊娠した女性の死体が置かれている。そのすぐ傍らにヴェサリウス自身が立って死体の胎内を指で示している。それまでの解剖講義の図版で実際に執刀していた外科医はテーブルの下でナイフを研ぐ役に追いやられ、ヴェサリウス自身が死体に直接触れてそれを切り開いている。この場面の独占的な主人公であるヴェサリウスを取り囲むのは、ヒポクラテス、ガレノス、アリストテレスという古代ギリシアの医学・自然哲学の巨人たちと、そして場面いっぱいにひしめきあっている観衆たちである。図の最上中央に掲げられた紋章には、自分の名前をもじった三匹のイタチ(weasel / vesalius)をあしらっている。古典古代の巨人たちに並び、ガレノスに従ってガレノスを凌駕した正確さを持つ人体の組織的な解剖を行い、それを空前の豪華本に仕立て上げた当時29歳の若きヴェサリウスの自信と自負が伝わってくるような図版である。そして、この書物はヴェサリウスの名声を確立し、彼は皇帝カール五世の侍医の地位を得ることになる。
第一巻の骨格を論じた巻から、第七巻の脳と感覚器を論じた巻にいたるまで、ガレノスの解剖学上の誤ちが随所で指摘された。その過ちはヴェサリウスが誇らしく記すところによれば200箇所に上るという。その中には、胸骨は七つでなく三つに分けられること、肝臓は五葉でなく三葉であること、脳底の網目状組織 (rete mirabile)は存在しないことなどが含まれていた。これらは、ヴェサリウスが、ガレノスの古典テキストと照合しながら、自ら死体を切り開いてつぶさに観察したことの成果に他ならない。ヴェサリウスが、『人体構造論』の中で、自らが解剖した人体の腕を握り手に触れて指し示す自画像(図3-4)を掲げていることが象徴するように、外科医のように自ら死体に触れて執刀することこそ、ヴェサリウスが誇りとした点であり、それまでの解剖学とは決定的に異なるものとして、それと同時に外科を積極的に行ったガレノスに帰るものとしてヴェサリウスが自己を規定した点であった。自負心が強いヴェサリウスは、それまで解剖学を教えていた教授たちを「高い椅子にとまったコクマルガラスのように、自分で探求してもいないことをガーガーと鳴き立てている」と書いている。この記述は、上に触れた『医学選集』の解剖講義の場面を描いた図版を解釈する有力な根拠になっているが、それとは別の解釈も可能である根拠は既に示した。しかし、特定に図版に関するいずれの解釈が正しいにせよ、ヴェサリウスが死体にじかに手を触れてそれを観察することが、彼のイノヴェーションであるというメッセージを『人体構造論』に込めたことは強調されなければならない。
『人体構造論』にとって、図版の正確さはまさにその生命線であった。しかし、ヴェサリウスの図版が「正確である」と言ったときに、それは「写実的である」ことを意味しない。むしろ、その最も有名な図版である骨格や筋肉を描いたものは、ヴェサリウスが実際に解剖した解剖台の上の死体からかけはなれている。あるものはシャベルを持って墓堀りのポーズをする骨格を描き、あるものは古代の遺跡がある風景の中でポーズを取る筋肉図を描いている。内臓を表現した図譜も、古代彫刻のトルソーの上に、解剖図を重ね合わせたモンタージュになっている。(図3-5)つまり、『人体構造論』の図版は、芸術上の主題や構図になぞらえて描かれた図譜を多く含んでいるのである。これは、解剖図譜を、実際に死体を解剖する生々しい行為とその文脈から切り離す効果を持った。腐敗が進んで悪臭を放つ死体の皮を剥ぎ、肉を取り除いてそれを確認するという汚穢に満ちた行為や、墓をあばいて死体を盗み出すという非合法で道義的にきわめて曖昧な行為は、人体を表象する壮麗な豪華本の外へと追いやられ、古典古代の芸術の空間へ解剖学の成果が定位された。死体の直近で執刀し観察することの重要性を繰り返し強調したヴェサリウスだが、その図版においては、むしろ解剖の生々しい現場と疑わしい死体の入手経路から読者・鑑賞者を遠ざける仕掛けが施されていたのである。比喩的な言い方をすれば、ヴェサリウスが解剖した死体は、『人体構造論』の中におかれることで、汚穢と非合法性の影がつきまとう解剖台の上から脱出して、ルネサンスの芸術の世界へと走り出していったのである。
「解剖劇場」という空間
ルネサンスの解剖学は、医学と医学教育という特定の文脈を超えて、絵画の媒介を通じてより広い文化の中で共有される主題となった。解剖学がルネサンス文化と共鳴するにいたったもう一つの重要な装置は、それが行われた「劇場」という側面である。シェイクスピアらが演劇を提供し、モンテヴェルディたちがオペラを上演した「劇場」という空間は、ルネサンス期に興隆した文化的な装置であったが、解剖学も劇場で提供されるイヴェントという性格を強くもつ営みであった。じっさい、何かを上演するために常設の建物を建てることが近代ヨーロッパで最初に行われたのは解剖講義が行われる解剖劇場 (anatomical theatre) であると示唆する研究者もいる。
解剖講義は、通常は年に一度の一大イヴェントで、医学校にとって最も重要な公的な行事であった。市当局から公式に大学に死体が与えられ、聖職者や市の公職にあるものなどの重要人物が立ち並び、医学校からは、解剖学の教授・講師たちはもちろん、他の科目の教授たちも正装して出席した。それ以外にも、街の医師たち、医学部以外の大学の教授なども招待され、場合によっては、頭部を解剖するときには頭を使う学者を、情念の座である心臓を解剖するときには詩人たちを招待するといった趣向も凝らされていた。当初は、これらの招待者は、教会や会堂、あるいは解剖学講義にあわせて仮設的に建てられた設備に収容された。16世紀のボローニャ大学では、解剖台を取り巻いて四列の椅子を円形に並べ、約200人を収容できる仮設の設備を実施していた。
16世紀の末から、各地の大学で仮設の講堂から常設の解剖劇場への移行が始まり、解剖が持つ劇場の性格が顕著になった。ヴェサリウスが去ったのちのパドヴァでは、1584年に最初の常設の解剖劇場が建てられた。これが焼失したのち [check!!] 1594年には第二の常設の解剖劇場が建設された。この常設の解剖劇場で解剖学を講義した最初の教授はファブリツィウス(Fabricius ab Aquapendente, 1533-1619) であったが、彼が常設劇場で行った解剖講義はヴェサリウスとはかなり異なった方向性を持っていた。ヴェサリウスの解剖講義が、短期間で人体の構造全体についての知識を得ることができ、視覚的・触覚的に確認できる構造を強調し、学生たちに「死体に手で触れてみて自分の感覚で感じてみなさい」と説くなど、手仕事としての解剖に興味を持つ外科医や外科的な傾向を持つ医学生たちに人気があったのに対し、ファブリツィウスの解剖講義は、ある特定の器官を選んで、その器官を取り出してその生理学的な機能を集中的に説明するという知的・理論的な面を強調していた。ファブリツィウスの解剖講義はこの方向性に合わせて演出されていた。実際に聴衆・観衆がいる劇場部分と、デモンストレーションのために器官を標本にする作業室に分かれており、作業室で標本にされた器官が劇場部分にいる聴衆に回覧されて、それぞれの構造が持つ目的と機能が明らかにされた。解剖劇場は、人体という神の最高の被造物についての真理が語られる空間となり、自然についての真理が医学校の学生のみならず、大学教授や聖職者などの知識人たちに向かって語られる、厳粛で崇高な知的探求の場になった。劇場には壮麗な彫刻が施され、代々の解剖学講師の肖像や寓意的な意味を持つ絵画が飾られた。着席の位置は厳密に定められ、前列には大学の教授や招待された名士や司教たちが着席し、講義の最初にこれらの名士が入場するとともに楽士が音楽を演奏した。解剖講義は、仮設教室に学生たちがひしめいて死体に密着して経験する場から、崇高な探求の場にふさわしい新たな演出の中で行われた。
解剖学が医学の実用的な脈絡を離れて劇場化する過程は、当時の新興国のオランダにおいても顕著に見られる。イタリアとほぼ同時期に、オランダでも常設の解剖劇場が続々と設置され、ライデンは1597年、デルフトは1614年、アムステルダムは1619年に常設の解剖劇場を持つことになる。イタリアと同様に、それぞれの解剖劇場での解剖講義には、医師をはじめ自然哲学者や知識人・名士が参加し、一般人も入場料を払って見物することができた。これらのオランダの解剖劇場は、解剖学にとどまらない医学の他の分野や、医学を超えた文化のセンターとしての機能を発達させていた。デルフトではデ・グラーフ(Reinier de Graaf, 1641–1673)やレーウェンフック(x-y)、ライデンではシルヴィウス(x-y)やブールハーヴェ(x-y)、アムステルダムではルイシュ(x-y)やスワメルダム(x-y)といった、解剖学の教授、医学部の他の科目の教授、そして実験科学者などを含む自然哲学全般の知識人たちが解剖劇場を中心にして活動していた。そこには図書館や博物館も並置され、サイやクジラの剥製標本といった自然誌的な事物や、古代や現代の美術工芸品などを収集した美術館も並置されていた。1609年に製作されたライデンの解剖劇場を描いた版画に、解剖台の上の死体、その傍らに立つ講師、詰め掛けた聴衆といった『人体構造論』の扉絵と共通するものだけではなく、骸骨となった動物標本が並んでいるのは、博物館・美術館と融合したオランダの解剖劇場の特徴を反映している。(図3-6)
オランダの解剖学も、17世紀のオランダの美術と深くかかわっていた。解剖学が持つ細部にわたって正確な図像表現への欲求は、当時のオランダ絵画の傾向に一致するものであった。カメラ・オプスクーラなどの新しい視覚的な表象をする光学器械は、フェルメールに代表される画家だけではなく、解剖学者によっても用いられていた。美術の技術的な側面だけでなく、主題においてもオランダの解剖学と美術は共鳴するものを持っていた。当時のオランダ絵画で流行していたヴァニタス (vanitas) と総称されるテーマがそれである。人生のはかなさと死の確実性を描き、「死を想え」(memento mori)という教訓を説くヴァニタスの主題は、解剖学の表象に深い影響を与えた。先に掲げたライデンの解剖劇場を描いた版画の骸骨の一つは、「男なんてシャボン玉」(homo bulla) というヴァニタスのモットーが書かれた旗を掲げている。解剖学講義が絵画と重なるとともに、解剖講義に出席した人々は、骨格や解剖中の死体を中心にして集合肖像画を描かせ、当時のオランダの繁栄と背中合わせの現世のはかなさを深く想う流行の身振りに参加した。これらの絵画の頂点にあるのが、レンブラントが1632年に描いた『ニコラース・テュルプ博士の解剖学講義』という有名な作品である。(図3-7)この絵のモデルであるテュルプは (Nikolaas Tulp, xxx-yyy)、アムステルダムの解剖講師で、ヴェサリウス以来の伝統に従って自ら死体の腕から手にかけての部分を解剖している。構図の中央の学生が持つ紙片には、解剖に列席している人々の名前が書かれ、これが集合肖像画であることが明示されている。その機能に加えて、人体という神の創造の神秘に触れ神の力に打たれた時の感動を鮮やかに表現している。後列中央の食い入るような学生の視線、前列中央の畏怖の念に打たれている学生の表情などが特に印象に残る。テュルプ自身も死体を見ておらず、学生たちに神の力の偉大さを説く驚嘆の声をあげる瞬間が描かれている。ここで描かれている解剖は宗教的感動が演出される空間であった。
自然哲学の真理の探究と神の創造の荘厳さへの感動、自然誌の収集・展示、そして宗教的な感動といったエリートの正統文化の側からの意味づけと並んで、解剖劇場は民衆文化の側面、具体的にはカーニヴァルの文化とグロテスクな身体の文化を持つこともあった。これは一見すると逆説的であるが、解剖劇場は民衆にも「公開」されていたことを忘れてはならない。そこを訪れたのはエリート階層に限らず、また正統文化のメッセージが独占的に伝えられる場所ではなかった。解剖学の演劇は、その企画者が意図したのとは違う意味を与えられる可能性があったのである。17世紀初頭のパドヴァにおいては、入場は無料であったため、仕立て屋、靴屋、肉屋、塩漬魚商なども訪れたことが記録されている。ボローニャの記録が伝えるところでは、1638年に改築された常設の解剖劇場では、死体が腐敗するのを防止する目的と、他の大学から学生を集めるために、ちょうどカーニヴァルの時期に公開解剖が行われていたため、カーニヴァルの仮面をつけて浮かれ騒ぐ人々が公開解剖講義に詰め掛けたという。これに対して、大学当局は仮面をつけて解剖講義に参列することを禁止したが効果はなく、黙認の形をとらざるを得なかった。このように、民衆文化とエリートの文化がせめぎあって一時的に既成の秩序が逆転されるカーニヴァルの時期に、通常の身体という規範を根本的に否定した「グロテスクな身体」が解剖学講義によって作り出されたという事態は、解剖劇場には、その表向きの顔とは別の側面があったことを示唆している。