Reiss, Benjamin, Theatres of Madness: Insane Asylums and Nineteenth-Century American Culture (Chicago: The University of Chicago Press, 2008).
医療の社会史の中にも、社会科学の方法を取って患者の人口動態などを明らかにする手法もあるし、文化や文学など媒介にした社会史も存在する。この著作は、後者の部類に入る傑作の一つであり、必要があっていくつかの章を読み直す。
19世紀の中葉から後半のアメリカの精神医学者たちが、劇作家のシェイクスピアを非常に持ち上げて、シェイクスピアの作品から精神医学の優れた洞察を読み取るべきだと主張した理由について。同様のことはイギリスでも起きていて、その理由は医者たちのディレタンティズムや、医師たちが階層としての差異化を図ったためとされる。アメリカでは事情はそれよりも重要で複雑である。アメリカの精神病院の目的は近代化していく社会において、その急激なリズムや不安定にさせる要因などに乱されず、有用な市民を作ることであった。そのためには、精神科の医師たちは文化的な権威を必要としており、その権威は医学の中ではなくてシェイクスピアに求められた。初期の専門誌において、20年ほどで10本を超えるシェイクスピアを論じたモノグラフが発表され、それらはいずれもシェイクスピアを人間の本性についての最高の洞察を示した著作と考えている。どの医者よりも尊敬されている権威の切り札であった。なぜアメリカの精神医学の医者たちは、このようなことをしたのか?その理由は、アメリカの精神科医たちの戦略にある。アメリカは自由が最も愛されている国家であり、その国において精神医学を成立させることは、患者の意思に反して監禁・収容する病院を運営することであった。アメリカの精神医学においては、精神病院が建設され始めた19世紀からずっと、男性・女性元患者による精神病院の批判が常に存在した。精神病院の拡大と元患者によるその批判は期を同じくしていた。このような自由を奪う組織としての批判に耐える精神病院の正当化が必要であった。そのためには、強力であり、広範な人々に訴える権威が必要であった。シェイクスピアは医学よりももちろん上であり、聖書よりも前進性を持つ権威であった。
もちろん、日本の精神医学の歴史における精神病院と自由の問題はまったく違う様相を取る。第一に、日本における精神科医療の監禁の問題が大きく取り上げられたのは、欧米諸国よりもずっと遅い。第二に、精神病院における監禁収容が、私宅における監置との関連で論じられるという欧米諸国において希薄であった重要な問題があったこと。第三に、私宅監置の問題とも関連するが、そもそも家長やその権威を代替する主体が、世帯の構成員を処罰・矯正するために隔離監禁収容する権限が認められていた社会であったという問題があった。