国民優生法と精神医学

必要があって、国民優生法と戦前の精神医学についての論考を読み直す。文献は、永井順子「戦争と優生の時代における精神病者」芹沢一也編『時代が作る「狂気」』(東京:朝日新聞社、2007), 111-141. 「精神医学者によらない精神医学史」をかかげて編集された論文集。編者や永井はもちろん、兵頭晶子、橋本明、佐藤雅浩、北中淳子といった若い実力者たちの論考を集めている。

呉秀三は私宅監置が医療をともなっていないことを批判し、精神病院を治療の場にしようとした。入院が即治療となるように精神病院を作りかえることは呉のヴィジョンであった。患者には薬を与えること。これは、病人として扱われている安心感を患者に与える。しかし、精神病者は相変わらず病人ではなく問題行動のイメージで捉えられていた。精神医学者の理想論をよそに、病院法成立後も患者の多数は治療ではなく監禁されていた。

大正期になると、遺伝性精神疾患を通じて、国民の質を低下させる精神病者というイメージが現れる。衛生局長の杉山四五郎などがその考えのスポークスマンとなった。1919年に各国における精神病問題を扱った論文集では、合衆国を参考にして優生学的なアプローチをすることが提唱された。それに対して、精神医学者たちは消極的・懐疑的であった。『社会事業』では、1930年・31年と、「社会問題としての精神病(懇談会)」「変質者問題座談会」が催されるが、このときにも精神医学者たちは消極的であった。彼らはたしかに変質者という概念や精神衛生というより広い人口を対象にした概念を通じて、社会に精神医学を浸透させ、国民の質をあげ生活能率を高めることを目標にしていたが、優生学の切り札である断種という方法には大きな抵抗を示していた。

1938年に厚生省が設立されると、予防局優生課もつくられ、民族衛生協議会がもうけられた。そこには、三宅、内村、吉益、植松、斎藤玉夫などの精神医学者が名を連ねたが、そこでも精神医学者たちの消極的な態度が目立った。その事情を内村は「法律学者・生物学者のひたむきな断種賛成論に我々が驚いたように、それらの人々はまた精神医学者の消極的態度を意外に感じたようである」と記している。この消極的態度の理由は、患者を収容すべき病院を整備することを後回しにしてこんな方法をとることは、はたして正当な政治だろうかという疑いがあったからだと内村は推察している。また、国民優生法は、連綿と続く皇統をいだく日本の「国体」に合わないという、当時としては強力な批判もあった。

この批判をかわして、非常時の立法として1940年に国民優生法が成立したが、この法律は41年から47年まで機能したが、その間、538件の不妊優生手術を行った。(男性217人、女性321人) 遺伝性の精神病は380件、遺伝性の精神薄弱は116件であった。この538件という数字が多いか少ないかというのは、価値観が混じる判断になるから、軽々しく少ないというべきではないが、当時の厚生省の予想よりもずっと少ない数であったし、のちに優生保護法になってからの不妊手術よりもはるかに少ない数であった。いま、ぱっと対応する数字が出てこないけれども(恥)、優生保護法により、49年から96年まで、全体で1万6千件の不妊手術が行われている。このうちかなりの部分が、期間の前半に集中的に行われている。

つまり、日本の優生学と精神医学の結びつきは、戦前に始まったが、戦後になってより強く・効率的になり、しばらくすると弱まって行ったのである。このことは、優生学という現象について重要なことを教えてくれるだろう。日本の優生学的な精神医療は、ファシズム政権下ではなく、民主主義の下で、盛んに実行されたということは知っておいたほうがいい。ついでに言えば、藤野豊さんは優れた仕事をしているが、ファシズム優生学とのつながりを過度に強調するのは、優生学の本質を捉え損ねていると私は感じていて、そう感じる一つの理由は、このような事実である。もちろん、藤野さんであれば、戦後民主主義の欺瞞性とか、そういう議論をされて、それはそれである程度当たっている議論なのだろうけれども。