京都のマラリア


必要があって、日本内地のマラリアを研究した古典的な論文を読む。文献は、宮島幹之助「京都付近ニ於ケル『マラリア』ト蚊トノ関係」『中外医事新報』No.547(1903), 1-21; No.548(1903), 17-25; No.549(1903), 11-21.

著者の宮島幹之助は1871年に山形県米沢市に生まれ、1944年に自動車事故で没している。東京帝国大学で昆虫学を学んだのち、マラリアの研究に転じ、当時マラリアの存在が知られていた京都の久世郡の淀町(現在の京都市伏見区にある)でマラリアの研究を行い、その内容を報告したのがこの論文である。宮島は後に伝染病研究所・北里研究所・慶應義塾大学の医学部などに奉職し、ブラジルの日本移民の衛生状態の研究を行い、国際連盟の保健委員を務めるなど、日本医学の国際派になった。

淀在住の小河常義という医師の協力を得て、宮島は淀に滞在してマラリア患者とアノフェレス蚊の研究をした。おそらく当時の最先端の技法を駆使したものである。淀地方のマラリアは、伏見の軍の駐屯所などで大きな被害が出ており、その疫学の研究は重要視されていた。淀で宮島が観察しえた患者は合計29人、うち5人は外から来たもので、淀に在住する里人は24人だった。この24のうち、大人は5名、19人は2歳から14歳の幼児から若年層だった。また、大人のマラリアは軽症で、キニーネを用いずとも自然に治り、血液中のマラリア原虫の数も少なかったのに対し、子供のマラリア、重症のものが多く、発作の数も多かった。これは、大人になると体力がつくからというよりも、免疫の有無に関係あるのだろうと宮島は考えていて、それを支持する論拠として、外来のものは大人であっても重いマラリアにかかるものが多いという事実を挙げている。この地では子供が最初にマラリア(おこり)にかかることを、「はつおこり」という特別な言葉で指しており、長い経験から、子供が最初にかかるマラリアを警戒し、大人のマラリアは特別な病気視しない態度が形成されていたのだろう。

航空写真で確認したら、淀のあたりは、桂川と宇治川が交わる、いかにも低湿地らしい地形だった。マラリアと関係あるのかしら。