生化学者とホルモン

必要があって、内分泌学の発展の初期の生化学者についての研究を読む。文献は、Oudshoorn, Nelly, “Endocrinologists and the Construction of Sex, 1920-1940”, Journal of the History of Biology, 23(1990), 163-186.

医学史の尺度で言うと、「ホルモン」という概念は、とても新しい。 イギリスの生理学者のスターリングが、hormone という言葉を、ギリシア語の「刺激する」という語から造語したのが1905年だから、たかが100年ほどの歴史しかもっていない。この物質の研究を通じて、20世紀の前半に、新しい「性」「男性性」「女性性」の概念が現れてきた。一言で言うと、それまでの「男性―女性」という二元論においては、男と女は、それぞれ男らしさ、女らしさを決める<特異的な>器官と物質を持っていると考えられていた。男性は睾丸をもち、その睾丸は男性ホルモンを分泌し、女性は女性ホルモンを分泌する卵巣を持っている。この器官と化学物質はそれぞれ排他的であり、男性が女性ホルモンを持っていたり、あるいはその逆だったりすると、それは異常、場合によっては病気であるとすら考えられていた。たとえばウィーンのオイゲン・スタイナハなどの初期の内分泌学者は、このモデルで考えていた。

しかし、1920年代以降、製薬会社と密接な関係を結んだ生化学者がホルモン研究に乗り出すと、ホルモン、そして男性性と女性性は、異なったパラダイムで理解されるようになる。例えば牡馬の尿の中に大量の女性ホルモンが発見され、下垂体と性腺とのフィードバックのメカニズムが理解されるようになると、男も女も化学的には両性具有である、すなわち、男性ホルモンも女性ホルモンも両方持っており、両性の化学的な違いは、それぞれのホルモンの相対的な比の違いとして理解される。これを、著者は「相対的特異性」と呼んでいる。この視点の切り替えは、生命体や性腺を離れて、(比喩的に言うと)試験管の中にある化学物質が研究する生化学の思考法によるところが大きい。

内分泌学の歴史を説明するときに私が授業で必ず口にする話題で、学生がノートを取るべきなのか笑うべきなのか困惑する話題がある。「ホルモン焼き」というのは、動物の「放るもん」を焼いて食べさせるからというのは、関西発で日本中で知られている知識だと思う。内分泌学が研究した「ホルモン」も、屠殺場で廃棄されたウシなどの睾丸や卵巣などの「放るもん」からとっていた。もっと究極の「放るもん」は、動物の尿で、1930年代に、ウマの尿から女性ホルモンを精製することができるとわかったとき、アムステルダムの「オルガノン」という製薬会社は、17,000リットルの尿から6mg のホルモンを集めたという。