展覧会・博物館としての世界

未読山の中から、19世紀の展覧会とオリエンタリズムを論じた論文を読む。文献は、Mitchell, Timothy, “The World as Exhibition”, Comparative Studies in Society and History, 31(1989), 217-236. いかにもというトピックかと思ったけれども、読んでみたら、緻密なリサーチと鋭利な洞察が満載の優れたカルスタで、とてもためになった。

19世紀にヨーロッパの大都市で開かれた万国博覧会の類には、当時の帝国主義を象徴して、各民族についての展示があり、しばしば、その民族の生きた人間が展示された。この論文は1889年、エッフェル塔が完成したときのパリの万国博覧会に再現されたエジプトの展示の話から始まっているし、たしかメリメだったと思うけど、日本の展示を見て、「チョコレート色の肌をした日本の小さな婦人たち」を一目見て参ってしまっている。万国博覧会だけでなく、博物館もその国の民俗や歴史などを展示するようになった。この博覧会と帝国主義の時代である19世紀に、オリエントが展示されたことの意味を論じたのがこの論文である。

一つは、世界を無限に続く「展示物」として秩序立てようという、西欧に特徴的な視点が存在したということ。オリエントからパリやロンドンに行った人々は、西欧人が「見つめる」人間であると書いている。もちろん展覧会では「大エジプト展」(笑)のコーナーがあり、そこでは、中世のカイロの町並みが細心の注意を払ってみすぼらしく再現されていた。劇場ではオリエントを主題にした作品があり、百貨店ではオリエント風のテキスタイルを展示して販売していた。そこでは、世界は「見られるもの」として理解されていた。西欧は自らを「スペクテイター」にして、陳列物と陳列物の違いを眺める主体として自らを位置づけ、いっぽう、世界をそのようなものとして作っていた。面白いのは、これを、博物館のアイテムの分析として議論するのではなく、博物館から百貨店へ・劇場へという、博物館・展覧会の場所の外へと広がっていく動きとして分析していることである。ちなみに、これはデリダの「迷宮」の概念と近いとのこと。

一方で、展覧会の基本的な前提というのは、世界は、表象とオリジナル、展示物と外のレアリティという二つの領域からできているというもので、展覧会は、「外のオリジナル」がないと成り立たない。それなら、その「外のレアリティ」に行った西欧人は、どのように振舞ったのだろうか?この問題を、この論文は、たとえばネルヴァルだとかフローベールだとか、有名なヨーロッパの文化人の旅行記の類を使って研究している。使っている概念装置はブルデューで、オリエントの街中にいくと、ある「視点」を得て、自分自身はその中に混じらないで、対象を眺めることができる概念的な場所を確立するのだという。

たぶん、この筆者の視点は、私にとって新しいだけで、この領域のプロたちにとっては、そんなに新しくないのだろうけれども、私は大いに興奮して読んだ。特に、展覧会だけではなく、街の劇場でも広告でも百貨店でも、他者が眺められる陳列物になっていて、展覧会が街にあふれていくという話は、直接のインスピレーションになった。それがデリダの迷宮かどうかはわからないけれども(笑)