フロイトのDeshi たち

必要があって、日本の精神分析の黎明期の歴史に触れた論文を読み直す。文献は、 Blowers, Geoffrey H. and Serena Yang Hsueh Chi, “Freud’s Deshi: the Coming of Psychoanalysis to Japan”, Journal of the History of the Behavioral Sciences, 33, no.2(1997), 115-126.

日本精神分析学会の創始者である古澤平作を中心にして、戦前に日本にフロイトを導入した医者たちについて調べたもの。彼らは、フロイト自身に会って、精神分析の最高の権威から直接に訓練されたという権威付けが必要であると同時に、フロイトの理論を日本の特殊な文化に合わせて発展させようという、矛盾した方向に置かれていたというのが結論らしいが、その部分に関係ある史実はあまり分析されていない。

東北帝国大学の丸井清泰は、アメリカのホプキンズに留学して、そこのアドルフ・マイヤーからフロイト説を間接的に習って影響され、それを東北で自分の学生たちに教えていた。古澤は、に教わってフロイト理論にまいってしまい(笑)、日本で色々と勉強して阿闍世コンプレックスの理論の原型を作り上げて、フロイトに会って、自分の論文を渡したり、フロイト自身に分析してもらうように頼んだりした。当時フロイトは、自分の分析に一時間25ドルを要求しており、これは古澤が捻出できる額ではなく、値引きを交渉したりしたが、結局、フロイトの弟子の一人が古澤を教育分析することになった。フロイトと会って有頂天になった古澤が、フロイトの部屋を辞するときに、フロイトが使用人を呼ぶベルを鳴らすのと間違えて部屋の明かりを消してしまった。この間違いを精神分析的に解釈すると、もちろん、フロイトが、古澤がその夜泊まっていくことを望んでいたことになるから、古澤は精神分析の大権威に受け入れられたと大喜びで、「精神分析を少しでも知っていたら、私がどれだけ喜んだか、おわかりになるでしょう」と知人に書き送っている。

・・・あほらしい(笑) 

東北帝国大学の丸井が、東北で精神分析を教えていたと書いた。これは私の想像だけれども、世紀末ウィーンの富裕で文化的なユダヤ人たちを相手にして作られたテクニックである精神分析を、戦前の東北で実践してみるということは、きっとかなりの無理があったと思う。丸井の弟子たちが東北の各地に散って精神医学の開業を始めたときに、神経症ではなく狐憑きの患者がやってきてしまう毎日に、自分たちが学んだことは何だったのか、疑問に思わなかったのかなあ。

それは、たとえて言えば、美容整形外科を学んで銀座で芸能人相手のクリニックを開業することを夢見ていた西川史子先生のような方が、内戦が続くアフリカのザイールのような国で開業することになり、二重まぶたや小顔を望んでやってくる患者は一人もいなくて、地雷で足を吹き飛ばされた人間に義足をつける手術ばかりやっているときの挫折感に似ているかもしれない。 ・・・って、冗談ですよ、冗談ですから(笑)