薫る死と臭う死

必要があって、古代・中世の医療の社会史研究の第一人者の書物を読み返す。文献は、新村拓『死と病と看護の社会史』(東京:法政大学出版局、1989)現代の医療倫理の問題とやや強引に結び付けようとしている部分もあるけれども、広範な資料から問題の本質を突く洞察が数多く含まれる、優れた書物である。特に「医師の職業倫理」と題された章は、医療倫理の意識が日本で高まった時期に書かれたのだろうか、分かりやすく、とても優れた小品だと思う。以下では、それとは別の章で、「往生人の死と下人の死」の内容をまとめる。

日本の古代・中世に多く見られた「往生伝」の中には、高徳の僧の見事な往生が語られている。その中で、死が持つ穢れをどのように処理するかという主題が明確に現れている。自分の死体が放つ穢れが周囲に広まらないように気を配る僧の姿が描かれ、また、死後に日数が経っても、体がその形を崩さず、死臭を放つどころか、香木のせんだんのような薫香を放ち続けるようなことが、優れた往生の特徴として語られている。裏返せば、通常の死においては、死の穢れは周りの人々を犯し、死臭に象徴される穢れは人々に憎悪されていた。

この、死の穢れへの憎悪が、ストレートに表現されているのが、家族でない・身内でないものの死である。身内でないものとして一番分かりやすいのは召使・使用人である。たとえば、今昔物語集の26巻20話は、流行病にかかって重態となった12・3歳の女童の話を伝えている。主人は彼女をいいくるめて、わずかばかりの食料を持たせて遠くに出したところ、犬に食われて死んでいるのが見つかった。同じく今昔物語集の12巻35話は、東大宮通を下った土御門の馬出しに、こもを一枚ひきめぐらせて寝かされている女の病人の話を伝えている。彼女は、流行病をわずらい、「棄て置かれた」ことを語っている。あるいは、道端に捨てないまでも、屋敷の外に小屋を建てさせて、そこに家の中で重い病に罹ったものを捨てたという記述もある。

弘仁四年(813年)の太政官符は、平生使役していた僕隷が病気を患うと、路辺に出され、看護し養う人がいないままついには餓死に至る現実を伝え、それを禁じている。しかし、この法令の効果は、あったとしてもわずかなものであったと思われる。このように、病気にかかって遺棄されたもので、一命を取り留めたものは、病者非人・重病非人と呼ばれ、街中を乞食をして回ったという。

病気といって家から追い出されて遺棄されたものは、主に下人や使用人などで、身内のものではなかった。むしろ、身内のものについては、家内で面倒を見るべきだという意識が資料から読み取れる。もう一度今昔物語からひくと、31巻30話では、ある女で尾張守の身内のものが年老いて兄の家に厄介になることになったが、彼女が病にかかると、兄は彼女を追い出した。この行動で人々に批判されたのは、尾張守だったという。これは、兄と尾張守のどちらが面倒を見るべきなのか、どちらが彼女の死穢を受け入れるべきなのかをめぐる、テストケースなのかな。