必要があって、アメリカの優生学と公衆衛生の重なりあいについて論じた論考を読む。歴史のプロというより、公衆衛生関係者一般に向けて書いたものだから、実証が甘い話はあるけれども(というより実証がそもそもできない水準に議論を設定した部分すらある)、そのせいか、かえって面白いことを言っている。文献は、Pernick, Martin S., “Eugenics and Public Health in American History”, American Journal of Public Health, 87(1997), 1767-1772.
歴史の上で優生学と公衆衛生というのは複雑な関係にある。これまでは、対立的に捉えられることが多かった。ある病気が感染するのか、それとも遺伝するのかという理解は、時として対立的に捉えられたから(初期の結核が良い例である)、一番単純に考えると、両者には対立する傾向が確かに存在する。
優生学というのは、a large and shifting constellation of meanings であるというのは、最近の医学史の一つの基本了解になっている。基本問題は、1) 人間を「改善する」というときの「改善」とは何か、2) heredity とは何か、3) 改善する方法は何か、4) その権威は誰が持つのか、という四つに分類することができる。
社会ダーウィニズムの優勝劣敗思想、すなわち自然は不適合なものを滅ぼすことになっているから、本来死ぬはずの生命を公衆衛生の改善で救ってしまうのは、自然の摂理への有害な介入であるという思想は、優生学には一貫して強かった。この点で優生学と公衆衛生は対立する。一方、この時期の医学の趨勢である専門分化の結果、感染と遺伝は医学の中の別の分科でそれぞれ扱われるようになり、異なった分野間の競争と対立も生じた。その意味でも、優生学と公衆衛生が対立していた側面は確かに存在する。
その一方で、両者には共通点も多い。人的・組織的にも重なっている。それ以上にこの論文の指摘で重要なのは、言語上・概念上の重なりである。まず、germ も germ plasm も、どちらも病気のもとになる微小な「種」である。梅毒はもちろん感染症だけれども、それは垂直感染するし、それを調べるのは「血液検査」であった。ここで、感染症は太古の昔から遺伝のメタファーであった「血」のメタファーとまじりあう。同様に、hereditary という言葉は、厳密に「遺伝の」というよりも、「両親から受け継いだ」という意味に取られた。ここにあったのは、もちろん間違った科学であるが、それよりも、道徳的な関心であった。 Eugenics は、遺伝にせよ、子育てにせよ、環境にせよ、「よい親であること」を意味した。
一方で、優生学と公衆衛生は、予防の方法も重なっていた。Sterlization は消毒であり、断種であった。移民を制限してアメリカの人種的純粋性を保つ政策の基本は、感染症の侵入を食い止める検疫であった。
もうひとつ、とても重要な指摘。ワイスマンの生殖質理論も、パスツールの自然発生の否定も、有限の個体と病原体から病気が遺伝/感染によって広がって行くことを明らかにした。ここから、「根絶」が、究極の目標としては知と政策の地平線上に浮かび上がってくる。マラリアの根絶が語られて試みられる一方で、ユダヤ人の殲滅 – final solution – も試みられる。
実証うんぬんよりも、アイデアを試す think piece だと考えるべき論考である。特に、語彙の共有の視点と、「地平線上に見えてきた目標」という論点は、実証ということよりも、インスピレーションとして考えると、示唆に富んでいる。