日本精神病医協会『日本精神病医協会記事』小峰和茂編(東京:小峰研究所、1974).
大正9年に呉秀三を中心にして作られ、昭和10年まで活動していた「日本精神病医協会」という団体がある。精神病を専門とする医者が会員となり、精神病に関する制度を研究することを主たる目標としてつくられた団体である。その団体の議事録が小峰研究所に残っていて、それを小峰和茂が編集して出版した冊子がある。大正から昭和の精神科医の団体が、内務省と警視庁から出される法律や規則に対して、どのような交渉をしたのか、どのようなかたちの精神病院の制度を設計しようとしていたのかを教えてくれる、素晴らしい資料である。
設立当初において協会で重点的に議論されたのは、精神病院法(1919)とその運用についての規則である。まず取り上げられたのが「代用精神病院法施行細則」であった。この細則が準備されているという新聞記事が現れると、大正9年の8月21日に、協会の会員で新宿脳病院の院長であった井村忠介が警視庁におもむき、福永衛生部長と当時の技師であった杉江に面会し、草案を見せてもらいそれを書写して、協会で議論することとなった。そこで問題になったことは、入院した患者の治療と処遇について、医師の裁量と行政の許可の間のバランスであった。細則草案の第六条は、公安上危険な患者、すなわち「殺傷、放火、逃走、扇動」などのおそれがあり、監護上やむをえない場合に限り、保護室に入室せしめることができ、それが7日以上にわたるときは、総監の許可を受けるべきであるとしている。この「保護室」というのは、かつては「狂躁室」と呼ばれたが、患者と人々に悪い印象を与えるとして呼称を改められたものである。同様に、第七条から第九条は、保護室への入室についての届け出と許可を定めている。第十条は、保護室そのものではないが、自殺の恐れがある患者を自殺自傷から防ぐための措置をしたときには、届け出ることを定めていた。これらの条項は、精神病院が公安を維持する側面を持っているという考えを表明していると同時に、保護室の利用は、行政の許可や届け出を必要とする行為であるという考え方を明確に打ち出していた。
翌日の8月22日の会合で、協会の医師たちは、これらの条項に一斉に反発した。保護室の利用や、自殺の恐れがある患者の拘束は、医療行為の一部であり、医師にまかされるべきであるという。巣鴨脳病院の院長であった石川貞吉は「第八条、九条、十条は不用なり」と言い放ち、東京女子医専の講師となった池田隆徳は「医師の治療権を侵害せる条項は極力排除せざるべからず」と賛同した。これらの医師の権限を主張する発言は、精神病院法がつくられた経緯と思想を考えるとより一層明確になる。1919年の精神病院法は、1900年の精神病者監護法に対抗して作られた法律であった。後者は、危険な患者を監置することを管理することに重きをおいた法律であり、精神病者としての認定には医師の診断書が必要であったが、いったん監置された患者に対しては、医師の権限を認める条項はなかった。それを批判して、精神病者の取り扱いを、医者の治療の対象として確定することが、精神病院法の根底にある精神であった。保護室の利用や拘束は、患者の治療の一部ではないのか、だとしたら、それらの行為は、許可や届け出が必要なことではなく、医者が自身の判断で行えることではないのか。これらの細則は、医療行為に対する行政の不必要な介入であり制限ではないのか。協会が細則の七条から十条までに反対したのは、彼らが理解していた精神病院法の精神に照らしてのことであり、患者の取り扱いのどこまでを医療行為と定めるのかという、医者の「なわばり」を定める、近代の医療プロフェッションの古典的な問題そのものであった。
この反対は、結局のところ、警視庁は微細な変更しか認めず、精神病医たちが譲歩する形となった。[more details, 細則その他をcheck!!!] 細則は大正9年9月14日に警視庁令第26号として発令されたが、協会が大正10年3月17日にこの細則を検討したときにも、第六条、第七条には、不満が噴出した。特に、危険な患者を7日以上保護室に入室させるときには、警視総監の許可を受けることを定めた細則第七条は、医師たちがこぞって反対した。田端脳病院の院長の後藤城四郎は、<治療とは病的症状を撃退する行為であり、これを実行するには他の方法手段を施す必要がある。従って監護上治療上の区別はこれを設ける必要ない」と主張して、。協会の会長であり、当時の精神科医たちの上に君臨していた呉秀三は、「公安を害すると認めるべき精神病者の行為は、一つの症状にすぎない。したがって、これを処置することは治療行為なりゆえに、本条は空文である」と宣言し、井村は、これらの条文の研究は次回まで保留されたものと述べ、呉は散会を宣告した。精神医たちは、苦い敗北を味わったと同時に、保護室などの拘束行為は、治療行為であり、医師が自由に行うことができるはずであるという考えを確認して、細則の検討を終えたのである。
同様の考えは、大正13年9月26日に、警視庁の技師の金子準二がもたらした、明治37年警視庁令第41号の改正案を審議したときにも表明された。その改正案は、保護室は必要ない場合には作らなくてもよいこと、慰楽、作業、運動の設備については行政で規定しなくてもよいこと、保護室の出入りについては届け出るには及ばないこと、などを訴え、「要するに、あまりに厳格な取締り令は、医権と病者とを無視し、かえって公私立病院の発達を阻害し、一方、複雑な取締り令は、病院事務員および警察官吏の頭脳を混乱し、かえって執務能力の減衰をきたすおそれあり」としている。
いくつかの重要なポイントがある。一つは、精神病医たちは、危険な患者の保安的な収容には、よくて両義的な態度をとっていたこと、特に保安が行政によって認められるという制度を嫌ったことである。保安行政からある程度切り離された精神病院の空間を作ることを望み、それが医師の権限であるといった。それなら、その治療の空間というのは、何によって構成される空間なのだろう?詳細な説明は省くが、私立病院が持つ、患者再度の需要と医師の供給によって成立する精神医療のサービスが売買される空間という意味と、大学病院が持つ、研究の空間という意味の二つがまじっていたと思う。