八丈島の精神病の疫学・1940年

内村祐之・秋元波留夫・菅修・阿部良男・高橋角次郎・猪瀬正・島崎敏樹・小川信男「東京府八丈島住民の比較精神医学的並びに遺伝病理学的研究」『精神神経学雑誌』44(1940), 745-782.
さまざまな意味でとても面白い論文。1930年代からドイツを中心に行われるようになった「精神医学一斉調査」をはじめて日本で実施したものである。精神医学一斉調査は、基本的には、ある地域の住民の全てについて、どんな精神病が、どの程度存在しているのかということを調査するものである。内村の別の論文での解説によると、ナチの人口政策・人種政策の中心人物だった医者のエルンスト・リュディンらが方法論的な原理を作り上げたものであり、内村はその方法を八丈島に適応している。この方法論を学ぶために、久しぶりに、ドイツ語の論文を読まなければならない。

八丈島が選ばれたのは、それが孤立の度合いが高く、調査期間中の人口移動が最小であるということと、村単位で互いに知り合っているので、どこの家に精神病者がいるかという情報を得やすいということ、婚姻が島の中で行われることが多いことから遺伝調査が可能になることである。調査方法は、八丈島警察と島内の村役場、そして松沢病院を動員して、すでに分かっている精神病者について家系図を作り、一方で8名の医者のチームによって精神病の疑いがあるものを診察していく方法をとった。実際の調査は1940年2月7日から16日と10日間にわたり、合計で8318名の住民が調査の母集団ということができる。

もうひとつ、八丈島について重要であったのは、それが徳川時代には流刑の島であったことであり、流人についての説明も付されている。流人は武人や農民など、封建時代の各社会層にわたり、その中には島の開発指導にあたったものもいたが、精神病質と称するべき放恣無頼の徒の少なくなかったことも事実である。「本島住民の素質構成を考える場合に、過去300年にわたって逐次侵入した犯罪者の血を無視するわけにはいかぬと思う。」750

一斉調査の方法で見ると、八丈島のデータは外国での調査で明らかにされた数字をはるかに凌駕している。たとえば精神分裂病をとると、ドイツ2か所ととデンマークでの調査は、年齢階層によって補正をかけて、それぞれ0.38%、0.41%、0.47%であるのに対し、八丈島のそれは、0.91%と、二倍以上の数値となる。八丈島には分裂病が多いというのが、ここから内村が引き出した小括である。

しかし、分裂病が、島内にまんべんなく分布しているわけではない。八丈島は、5つの村から成り立っており、それぞれの村の間の交流は薄い。そして、これらの村のあいだの精神病者の比率は大きな違いがある。A村、D村では、人口に対して分裂病が1.30%、1.41%であるのに対し、E村では0%、C村では0.30%である。つまり、分裂病は、一定地域に偏異的に集積しているのである。

一方で、このような一斉調査によって明らかにされた姿と、「穿試法」と「家族法」と呼ばれる手法を用いた場合では、両者は一致しない。後者の方法では、八丈島に特に精神病が濃厚なわけではない。遺伝調査によっても、八丈島の分裂病者家系が、精神健康者を発端者とする健康家系に比して、思い負荷をになっていることは事実であるが、それは決して大きなものではない。八丈島における分裂病家系の病的負荷は、普通一般の分裂家系に比して、特別濃厚ではない。一言でいうと、取った方法によって、現れてきた姿がかなり違うということである。

その中で、内村らがこれだけは確実であるとして出した結論は非常に興味深い。「結局八丈島調査によって我々の得た最主要の所見は、分裂病の孤立的集積という一事である」780

おそらく、このセリフを読んで、多くの研究者が、村の中である特定の「家筋」を忌避する慣習が、精神病の疫学の言葉を借りて語られていると思うだろう。私もそう思う。内村のチームの別の論文についての記事を書くときにもう少し発展させて書くけれども、実は、内村らの研究は、村の民俗や生活に大きく依存したものであった。ドイツの優生学者の洗練された方法を使ったからといって、その研究が客観的になるわけではない。むしろ、それが研究された土地の民俗や考えに大きく影響されたのである。