ハンセン病疫学のフィールドワーク調査

廣川和花「ハンセン病疫学と近代日本の地域社会」『歴史評論』No.746(2012年6月)59-75.
必要があって、近代日本のハンセン病の歴史における疫学研究を分析した論文を読む。著者は、ハンセン病の歴史の新機軸を打ち出している気鋭の歴史学者の一人である。

1907年の法律は、神社仏閣や路傍に徘徊していた浮浪患者を念頭においた、そもそも社会の底辺に不安定な形で集合的に存在していた患者を対象にした救貧であり治安であった。そのような患者は療養所に収容する一方で、「資力がある」患者は自宅療養という二分法であった。それが、1931年の法律では、資力の問題ではなく、感染させる恐れがあるかどうかが収容の基準となった。自宅療養していたとしても、「未収容患者」とみなされる新しいレジームが適用されることになった。収容されるべきハンセン病者は、社会の周縁部にはじきだされていた他者から、「われわれ」の一部になったのである。

このハンセン病についてのレジームの変容と並行して生起し、おそらくそれと相互に影響を及ぼしあったのが、ハンセン病の疫学研究であった。ハンセン病においては動物実験などの方法が順調に進まず、ある種の行き詰まりを見せていた。国際的にも、農村におけるフィールドワークは主要な方法になっていた。1930年代には、日本のハンセン病研究者たちは農村におけるフィールドワークという新しい研究方法を実施していた。太田正雄の宮城県の農村研究などがその発端である。これまでの収容所や大学病院の外来にベースをおいた統計とは違い、研究者たちはフィールドに出て行き、そこで患者を発見し、想定される感染経路、患者の分布、特定の村・家系への集積の度合いなどを調べようとした。一連の研究は、血縁の重視、僻地に「癩村」が存在して周囲の村から血縁において孤立していること、村の衛生状態と生活の形態から想定される感染のありかた、そしてこれらの村から大都会に行って潜伏する形での感染者の存在などの主題が浮かび上がっていた。

ある病気の患者を発見するためのフィールドワークというのは、20世紀の医学が獲得した一つの新しい要素である。それは、それまで発展してきた医学の三類型、すなわちベッドサイドの医学―病院の医学―実験室の医学という重層に、さらに新たな要素を付け加え、それらと複雑な関係を結ぶことになった。この三者は、それぞれ別の社会的な空間に根ざしていた。ベッドサイドの医学は個人的なサービスの売買の契約に基づいた関係であり、病院の医学は欧米では慈善や公費が作った場であり、実験室の医学は科学的な操作が行われる空間であった。それに加えて、フィールドワークの医学というのは、医療を求める人々を対象としたのではなく、潜在的な医療の対象とそうでない人々がまじっている社会を対象にしたものであった。この新しい要素は、医療という営みに新しいエコロジーを与えることになり、その営みに対して責任を持つ主体を変えていくことになったと思う。私は精神医療について、フィールドワークを通じて精神病患者を発見することがどのような意味を持ったのかを調べているので、ハンセン病を対象にしたこの論文は、非常にためになった。