「医学史の過去・現在・未来」、全体の草稿をアップします。ご批判などがありましたらご指摘いただければ。最終稿ではありませんので、まだ引用しないでください。
医学史の過去・現在・未来
鈴木晃仁(慶應義塾大学)
序論―「医学史」という領域について
医学・医療・疾病などの歴史を研究する「医の歴史」は世界各地においてきわめて長い歴史を持ち、20世紀初頭のドイツ語圏で明確な学問として成立した。これをドイツ語では Geschichte der Medizinといい、英語では history of medicineという。この「医の歴史」は1980年代の欧米、特に英米において急速に拡大・変質して「新しい医の歴史」と呼べる領域が確立して世界各地で研究されるようになり、日本においても1990年代から類似の領域の急速な発展が始まって現在にいたっている。そのような「医の歴史」の歴史記述の過去・現在・未来を論じることがこの小論の目標である。主たる対象は日本における研究であるが、欧米の事情との連関も示した。
この小論は、直訳すると「医の歴史」となる history of medicine を「医学史」と訳す方針をとる。「医の歴史」は、大別すると、学問としての医学の歴史、実践としての医療の歴史、患者の経験としての病気と健康の歴史、人体に起きる現象としての疾病の歴史などに分けることができるが、これらを切り離さずに同一の領域にとどめることに大きな意味がある。個々の研究が、医学・医療・患者・疾病などのそれぞれの要因に集中する限定はもちろん許されるが、それらの要因が相互にどのような関係を持ったか問うこと、言い換えると学問と実践と経験と環境がどのように連関したのかを問うことが新しい視点を切り開いてきたからである。そのような可能性を含みこんだ一つの枠組みとしての「医の歴史」を日本語の単語でも保持しなければならない。「医療史」「医史学」「医学史」などの候補があるが、訳語の選択はやや難しい。「医療史」と呼べる視点は、医者と患者の双方を含んだ営みを扱うという意味で新しい医の歴史の主流であるが、臨床に特定されたニュアンスを持ち、全体概念の単語にふさわしくない。「医史学」が、純粋に言葉の意味でいうと、もっとも適切な訳語であり日本医史学会もこの名称を採用している。しかし、「医史学」という単語は、医史学会を離れた場所ではあまり使われないという欠点を持つ。「医学史」という訳語を採用する理由はそこにあり、「医学史」と「医史学」の使用頻度を較べると、ReaD/ResearchmapのキーワードでもGoogle 検索でも4倍や10倍以上の比で「医学史」の方が頻繁に用いられている。たしかに、「医学史」というと、狭義の学問的な営みとしての「医学」の歴史という誤解に誘導しがちであるが、それは研究者の意識と成果によって正すべき事柄であろう。
医学史の過去―古代ローマから1980年代まで
冒頭に触れたように、過去の疾病や医学を知る営みは長い歴史を持つ。過去の疫病はツキディデュスをはじめ古典古代から詳細に記述されたし、ローマ帝国に生きたガレノス(129-c200)は、ヒポクラテス派以降の医学の学派を検討して500年以上にわたる歴史記述をなしている。過去の医学テキストに英知を求めることは、もちろんガレノスにとどまらず、ルネサンス期のヨーロッパでも江戸時代の日本でも医学の大きな部分を占めていた。16世紀から17世紀のヨーロッパでは、ガレノス、アリストテレス、ヒポクラテス(派)といった古典古代の医者・自然哲学者のテキストが編集・校訂・解釈されて、ヴェサリウスの解剖学、ハーヴィーの血液循環論、シデナムの経験主義などの重要な背景となった。江戸時代の医師たちにとっても、中国の古典医学書は教科書であり、18世紀末に設立された幕府の医学館の大きな業績は、唐代の孫思邈の『千金翼方』や平安時代の丹波康頼の『医心方』などの大規模な著作を編集・校訂・刊行したことであった。特に、古方派の医師である山脇東洋(1705-62)、永富独嘯庵(1732-66)、吉益東洞(1702-73)などは、最古の医学古典の一つである『傷寒論』を重視する姿勢と近代的な装いを持つ医学を作り上げることを両立させていた。過去の医師を直接の師とすること、そして過去の医学テキストを校訂し解釈して真意を知ることは、長い期間にわたって医学を動かしてきた重要な要素であった。現代においても、漢方医学やインド伝統医学では、医療の実践者たちはこのような態度を保持している。
過去の医学の内容に直接の教えを求める態度から、現代と過去の医学の間にある関係を学問的に吟味するようになると、「医の歴史」と呼べるものが成立する。ヨーロッパにおいては、歴史に大きな関心が寄せられたと同時に、医学が急速に変化していた19世紀から20世紀にかけて医学史という学問が成立した。ドイツのライプツィヒの医学史の教授となったカール・ズードホフ(1853-1938)にその創設者の栄光が与えられている。日本においては、ズードホフとほぼ同じ時代に生きた富士川游(1865-1940)が日本の医学史の確立者であり、1904年に刊行された『日本医学史』はのちに学士院賞を受賞する大作であった(興味深いことに、富士川の医学史研究はドイツに留学するはるか前から始められたものである。)過去の医学と直接的な関係を求める態度が後退したとはいえ、ズードホフも富士川も医師であり、この時期から20世紀後半までの医学史研究の指導的な担い手はやはり医師たちであった。欧米では、ヘンリー・ジゲリスト(1891–1957)、オウセイ・テムキン(1902-2002)、アーウィン・アッカークネヒト(1906-1988)などは優れた医学史研究者であると同時に、医学部で教育された医師であった。
20世紀の日本においても、1980年代ころまでは医学史研究は主として医師によって行われた。20世紀前半の日本の医学史研究の主力は、富士川と直接・間接の関係があった医師たちであった。富士川と同郷・知己である土肥慶蔵(1866-1931) と呉秀三(1865-1932が、医学の第一人者で同時に優れた医学史の研究者であるというパターンを成立させた。土肥はドイツに留学したのち1898年に東大医学部の皮膚病学梅毒学の教授となった。皮膚科学・皮膚病学の国内の権威であるとともに、梅毒の歴史において『世界黴毒史』(1921)などの著作をしている。1927年(昭和2年)の「黴毒の起源に就ての研究」は学士院賞を受けた。呉も、ドイツ・オーストリアに留学して精神医学を学び、1901年に東大医学部の精神科の教授となった。呉は、日本における精神医学の基礎を築くと同時に、『シーボルト其生涯及功業』(1896)をあらわし、シーボルトの『江戸参府紀行』の翻訳(1927)を刊行した。ちなみに、富士川が留学前に本格的な医学史研究を始めたのと同様に、呉のシーボルト研究も留学前に仕上げられている著作である。
富士川・土肥・呉などの大正期から明治期に活躍した近代医学の第一世代による医学史研究は、昭和の戦中期から戦後期にも受け継がれ、一流大学の優れた教授が同時に優れた医学史家であるというパターンが継続する。血清学者で東大教授の緒方富雄(1901-1989)、解剖学者で東大教授を退官後に順天堂大学の医史学の教授となった小川鼎三(1901-1984)、細菌学者で大阪大学教授の藤野恒三郎(1907-1992)、衛生学者で東大教授の山本俊一(1922-2008)、ウィルス学者で千葉大教授の川喜田愛郎(1909-1996)などがこの時期の医学史研究を象徴する。彼らはそれぞれの分野や主題において現在でも標準的に参照されている優れた仕事を遺した。その中で、川喜田の『近代医学の史的基盤』(1977)は、日本語で読める西欧の医学史の通史としては現在でも最高の著作であり、富士川・土肥に次いで医学史としては三回目の学士院賞を1979年に受賞した。大学教授による優れた医学史の伝統は現在にも受け継がれ、麻酔学の松木明知(1939-)、解剖学の坂井建雄(1953-)、そして医史学の酒井シヅ(1935-)などは、それぞれ華岡青州・ガレノス・江戸時代の医学について高い水準の作品を発表している。
20世紀の後半には、それとは異なった狙いと体制を持つ医学史研究が現れた。その担い手たちは、同時代の医学の体制に批判的で、市民運動と密接な関係を持ち、左派的な思想に立つ医者・医学者であった。大阪の丸山博(1909-1996)・中川米造(1926-1997)と、東京の川上武(1925-2009)・岡田靖雄(1931-)らがこの流れの医学史を代表する。丸山・中川は大阪大学医学部の研究者であり、丸山は衛生学の教授、中川は医学概論の教授であった。丸山が、大阪の貧困地域の乳児死亡率を社会構造に連関させた研究を行ったことと共鳴するかのように、彼らの医学史研究の中心的な主題は医療と疾病の社会的な構造であった。1960年(昭和35年)に、丸山たちは、日本科学史学会の年会において「緒方洪庵生誕150年記念・医学史研究会」を開催し、1961年には『医学史研究』が季刊で発信を始めた。創刊号の巻頭言は丸山が書き、冒頭には中川が「いわゆる<医学の危機>について」という時事性が高い論文を寄稿している。1965年には、丸山と中川を責任編集者として、『日本科学技術史大系』の第24巻・25巻として、『医学1』『医学2』が刊行された。幕末の開国から1960年ころまでの日本を対象に、医療と社会との関連を示す資料を選択・抜粋し、優れた解説をつけた医学史研究の快挙であった。
東京における類似した運動の中心人物は医者の川上武(1925-2009)であった。川上は、武谷三男の科学論や野呂栄太郎・羽仁五郎などの講座派の社会科学に影響された論客であった。『日本の医者』(1961)や『現代日本の医療史』(1965)は大きな注目を集めて版を重ね、後に50冊を超える医療に関する著書・編書を出版する戦後日本を代表する医療評論家になる出発点となった。川上は大学に所属を持たない在野の研究者であり、医局制度と大学教授への権力の集中を批判したため、川上自身が「サークル主義」と呼んだように私的な研究会が研究発表の場であり、市民運動としての側面を力強く表明していた。『医療社会化の道標―25人の証言』(1969)は、労働者診療所、無産者医療運動、朝鮮農村衛生調査、農村医学などに活躍した医師たちの証言を記録した書物であり、『国崎定洞』(1970)は、ロシア革命後の粛正に消えた日本の医学者の伝記と著作からなる珠玉のような優れた書物である。
しかし、彼らが築いて1960年代から70年代にかけて重要な成果を上げた医学史研究のエトスは、次第に時代との歯車が合わなくなった。おそらくこの過程は左翼の衰退が決定的になった1980年代には始まっており、1990年代にはその問題は彼ら自身にとって鮮明になっていた。丸山・中川が没したあとの医学史研究会の幹事をつとめた小松良夫(1923-2004)は、1997年に苦渋に満ちたメッセージを『医学史研究』の読者におくり、川上は1996年に自らの活動を自己批判する文章を出版している。一方で、川上らとよく似た形で在野の研究者として日本の精神医療の歴史研究を確立した岡田靖雄(1931-)は、現在でも史料蒐集と学会報告を精力的に行って尊敬を集めていることも追記しなければならない。
医学史の現在―多様性・国際性・社会性
かつての医学史と違う性格を持った「新しい医学史」が欧米に現れて世界に広がったのは1980年代から90年代にかけてであった。その変化はまさに圧倒的であった。最大の違いは担い手の変化であった。かつての医学史は医学部の内部の学問であり、医学の内部からの賛美であり批判であったのに対して、新しい医学史は医学の外部の人文社会系の多様な学問分野に拡散し、それぞれの領域の洞察にインスピレーションを求めた学者たちが、医療の外側から問いかけるという形をとった。多くの分野の背景を持つ研究者が共存してダイナミックな論争が交わされる空間が世界各地につくられた。著しく多様な背景・視点を持つ研究者たちが妍を競うかのように成果を発表し、研究の数量的アウトプットは急激に増加し、医学史のレファレンスや教科書が毎年のように出版され、膨大な数の学術書・論文集・個々の論文が出版されるようになった。このような発展は、イギリスのウェルカム医学史研究所(旧称)やアメリカの国立医学図書館などの既存の研究機関と融合し、ドイツでも伝統的な医学史の研究室が新たな発展をとげることになった。1990年代からの日本における医学史研究も、欧米における発展と同様に、人文・社会科学のそれぞれの分野・領域の多様な視点・問題関心・方法論を用いた研究が併存する領域となった。
医学史の新しい潮流が現れて世界に広がった理由は、人文社会科学の内部で言うと、ミシェル・フーコーの影響、身体という現象への注目、ジェンダー論の影響などがあげられるが、それだけでなく、20世紀後半の医療が先進国の各国に共通してもたらした変容が最も重要であろう。その変容の核には、医療を医者とその体制の設計者に任せておけば人々に善がもたらされるというかつてのモデルが効力を失い、それとは異なったモデルが求められている変化がある。かつての医学史の歴史記述は、その時期の医療の進歩と福祉の進展に則したものであった。19世紀末から20世紀初頭・中葉にかけて、医学と医療が理論的・技術的に飛躍的に進歩して、それと同時期に、福祉の進展によってその果実を広範な人々にもたらされるべきだと信じられていた。医学と医者の貢献を強調するヒストリオグラフィと、それをもっと多くの人々が享受できるような社会体制にするべきであるという批判的なヒストリオグラフィは、一見対立しているように見えても、実はどちらも時代に合致していた。しかし、このような時代は長続きしなかった。国によってその時期に多少のばらつきはあるが、先進国においてはおおむね20世紀の後半には、医療技術の進歩は英雄的な飛躍ではなく漸進的なものとなり、福祉国家の拡張はある飽和段階に達して縮小すら始まった。かつてのように医師を先生と仰いでその権威に従うのではなく、患者が持つ医療倫理の意識は明瞭になり、患者は医師と契約を結ぶ者として位置づけられることが日常に浸透し、それと並行して、医療と健康に関連する巨大な市場を背景にして、患者は医療サービスの消費者という姿も獲得した。
それにともなって、20世紀の後半には、医学の貢献とその不足を強調する歴史記述では扱いきれない数多くの主題が意識されるようになった。その中でもっとも鮮烈なものは、過去の医師の犯罪行為と患者の人権の侵害であり、これらの多くは、記憶の底から掘り出される形をとって世に問われた。ナチスの医師たちの強制収容所での人体実験や、日本の医師たちの731部隊の中国人捕虜を用いた人体実験はもっとも強烈なものであった。欧米における精神病院への隔離収容や、20世紀日本のハンセン病療養所への収容と断種も、医学史研究の大きな主題となった。天然痘の撲滅が一時的に象徴したように、医学の勝利に終わるはずであった感染症との闘いは、1980年代からHIV/AIDSが世界的に流行して開発途上国を蹂躙したこと、先進国においても抗生物質が効かない病原体が蔓延することなどを通じて、現在の世界もまだ病原体とヒトなどが作る生態系の中に生きている現実がつきつけられた。精神疾患においては、梅毒性の精神病が実質上消滅し、統合失調症がコントロールできるようになった20世紀の中葉までの前進を裏切るように、新型うつ病、多重人格、ADHDなどのように、新たな精神疾患がとめどもなく付け加えられるメカニズムが社会に現れたように見えはじめた。そのような状況における医学史研究は、歴史上の医者の貢献を善として讃えたり、そのさらなる拡散を唱えたりする医学史とは異なった立ち位置を必要とした。20世紀末以降の「新しい医学史」は、このような背景のもとで、医学・医療・疾病を、医学の内部の問題ではなく、政治・経済・社会・文化などとの連関において捉えようという基本的な発想を持つ。それゆえに、新しい医学史は、個別の国家・個別の領域に特定された影響や主題の大きな変奏を受けながらも、世界各地で類似し共鳴した方向性を持つと考えられる。
日本において新しい医学史の研究が行われている重要な領域は、日本史、西洋史、帝国主義研究、歴史人口学、民俗学・文化人類学、文学、社会学などである。たとえば日本史の領域において特筆に値する主題は、ハンセン病の歴史と明治期の公衆衛生の歴史であろう。いずれの主題においても、欧米の医学史研究、特に産科学・婦人科学、精神医療、帝国主義医療などが辿った道筋が見出される。すなわち、当初の医学性善説が批判され、医療の受け手が被害者であったことが強調されて「被害者史観」と呼ぶことができる立ち位置が導入されたのち、より実質的なリサーチ、洗練された理論、多様な要因からなる構造の再定位へ向かうという過程である。ハンセン病の歴史においては、藤野豊『日本ファシズムと医療』(1993)が研究史上にそびえたつ傑作であり、戦前のハンセン病患者の隔離収容が容赦なく批判された。しかし、藤野の著作から20年弱で研究は新たな段階に入り、廣川和花『近代日本のハンセン病問題と地域社会』(2011)はハンセン病問題の中のさらなる複雑性を指摘して倫理的・方法論的な課題を提唱した。同様に、松岡弘之は『隔離の島に生きる』(2011)という資料集を編集・刊行し、患者自治の様子の記録と、患者一人一人が書いた「最近の愛生園」という史料を明らかにした。明治期の公衆衛生においては、西欧から輸入された公衆衛生・感染症対策を文明の進歩であり是であると捉える見方に対して、安丸良夫らの影響のもとに歴史学者たちは「コレラ騒動」などの民衆の抵抗運動に注目し、かつての一揆ともつながる民衆暴動という主題を公衆衛生の歴史に導入した。このような関心を経て、1990年代の末には尾崎耕司や小林丈広の業績に代表されるような形で、明治期の地方行政の改革や国際衛生からなる新たな問題系を設定した。
ハンセン病と明治期の公衆衛生以外にも多くの着目するべき業績が日本史の領域から現れた。古代史・中世史からは、新村拓の『古代医療官人制の研究』(1983)・『日本医療社会史の研究』(1985)などを経て、丸山裕美子『日本古代の医療制度』(1998)が現れた。近世史では、ジェンダーと身体の歴史の問題を切り開いた沢山美果子『出産と身体の近世』(1998)、江戸時代の医療の社会・経済・文化的な構造を分析した海原亮『近世医療の社会史』(2007)、ハンセン病患者の生活を示した鈴木則子の研究などはその研究の一端である。これらの研究をまとめて全体像を示した青木歳幸『江戸時代の医学』(2012)は近世日本の医学史の新たなスタンダードである。近代については、米本昌平・松原洋子らの一連の研究は優生学研究を日本近代の重要な現象として定位するのに大きな役割を果たした。日本を対象とした医学史研究は海外においても大きな主題となっている。国際日本文化研究センターからハーバード大学に移った栗山茂久は、自身が独創的な視点の優れた論文を発表するだけでなく、日本とアメリカの医学史研究の橋渡しをする役割を果たした。アメリカのAndrew Goble, Ann Jannetta、William Johnston、Alexander Bay, Brett Walker、Sabine Frühstück、イギリスのChristopher Aldous, Christopher Harding、 韓国出身で米英に拠点を持つHoi-eun Kim、Jeong-Ran Kimなどの著作は、中世医学の国際性、種痘、結核、脚気、環境、性、占領期の医学、精神分析と宗教、帝国医学、公衆衛生などの重要な主題を取り上げてきた。
西洋史の領域においては、医学史がそれぞれの仕方で進展してきたイギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどに留学してその地の研究の方向性を受け継いだ研究者たちが数多く現れた。イギリス帰りの研究者としては、公衆衛生史の永島剛や精神医療史の高林陽展などが優れた業績を上げ、福祉の社会史で18世紀バーミンガムの病院を分析した長谷川貴彦も医学史に触れる仕事をしてきた。この小論の筆者もイギリス帰りの精神医療の研究者である。フランスでは、ミシェル・フーコーやアナール派の影響のもと、さまざまな視点から医学史の多様な側面が研究されている。アラン・コルバンやジョルジュ・ヴィガレロらが編集した三巻本である『身体の歴史』は、美しい図版と爽快なエスプリとともに新しい医学史の魅力をもっとも雄弁に伝える翻訳書であろう。長谷川まゆ帆の『お産椅子への旅』(2004)や『さしのべる手』(2011)などが、フランスにおける医学史の進展を告げている。ドイツでは、比較社会史の川越修の『性に病む社会』(1995)や、ドイツで生まれて発展した代替療法であるホメオパシーに注目した服部伸『ドイツ「素人医師」団』(1997)が比較的早い時期の業績である。アメリカでは杉田米行が『日米の医療―制度と倫理』(2008)を編集して、社会科学的の視点を持つ比較医学史を研究している。初期近代の医学思想史の主題については、ヒロ・ヒライやサチコ・クスカワがヨーロッパに拠点をおいて活躍しており、特にヒライの活動は日本の研究者たちと連携を作り出すダイナミズムを持っている。近現代の医学思想史を軸にして研究で著名な金森修は、数多くの著作を続々と世に問うている。
帝国主義と医療の歴史は、主題の性格も反映して国際的な連関がもっとも成功している領域であろう。見市雅俊・脇村孝平・斎藤修・飯島渉らが編集した『疾病・開発・帝国医療』(2001)は画期的な業績であり、日本における帝国主義と医療の歴史の研究を離陸させ、この編者の中から中核的な研究者たちが現れることとなった。インド社会経済史の研究者である脇村孝平は、『飢饉・疫病・植民地統治』(2002)などの著作において、開発経済学の中に飢饉と疾病という医学的現象を位置づけ、イギリスやインドの研究者と日本の研究者の結節点となり、領域に国際的な広がりをもたらした。飯島渉は『ペストと近代中国』(2000)・『マラリアと帝国』(2005)などの著作において、疾病と医療を媒介にして日本と中国・台湾・沖縄などの連関を示す視点を作り出し、それと同時に、台湾・中国の研究者と深い連結を作り出した。飯島は後進を指導する重要な役割も果たし、その門下からは市川智生・福士由紀などの優れた研究者が現れている。植民地朝鮮については、愼蒼健が同じような役割をはたしてきた。愼は、個人として朝鮮の伝統医学や朝鮮社会の衛生調査についての重要な論文を発表し、韓国の研究者と協力しながら領域に国際性を与えながら牽引してきた。坂野徹の『帝国日本と人類学者』(2005)も、この研究の潮流から出てきた優れた著作である。中国においては、731部隊による捕虜を用いた人体実験活動が大きな研究主題になっており、科学史の常石敬一や社会経済史の松村高夫らが国際的な研究ネットワークを発展させて重要な成果を発表してきた。
民俗学と文化人類学も、活発な医学史の研究を行ってきた領域である。これらの学問は、出産・誕生・病気・死といった医学と深く関連した現象を儀礼の一つとして研究してきたし、精神や身体の病気や異常の原因とされた憑きものやそれを治療するシャーマンなどの治療師は重点的な研究の焦点であった。欧米の1980年代の医学史が人類学に大きく影響されたように、日本においても、人類学者・民俗学者に影響を受けた医学史研究が成立した。たとえば小松和彦は『憑霊信仰論』(1982)『悪霊論』(1989)などの一連の著作において疾病と治療の社会的な意味を探求し、その視点は、臓器移植の歴史民俗学を扱った香西豊子『流通する人体』(2007)、憑きものから精神病への移行を論じた兵頭晶子『精神病の日本近代』(2008)など、大阪大学日本学専攻の研究者による優れた著作を生み出した。それに対して東京では、日本の民俗学とはややおもむきが異なる北米の医療人類学を通じた医学史の研究と教育の拠点が、慶應大学の新進気鋭の北中淳子によって形成されつつある。北中が大きな影響を受けたのは、医療人類学の世界的な中心の一つであるマッギル大学の教員で、日本をフィールドにした医療人類学の一連の著作(『都市計画と東洋医学』『更年期』『脳死と臓器移植の医療人類学』)で大きな影響を与えてきたマーガレット・ロックであり、北中が日本のうつ病の歴史と人類学を論じたDepression in Japan (2011)は国際的に高く評価されている。
歴史人口学と社会経済史も、欧米の医学史研究の重要な軸となった領域であり、日本でもこの流れは上陸している。歴史人口学は、出生・死亡・生殖・疾病などの現象が主要な指標であり、それを社会・経済・文化などに連関させることが主たる枠組みであるため、医学史研究に深い関連があり、健康と医療と疾病の社会経済史研究は医学史の柱の一つになってきた。特にイギリスにおいて両者の接近と重なり合いが顕著であり、歴史人口学・社会経済史の主要な研究者であるRichard Smith、Simon Szreter、Patrick Wallis は医学史の研究者としても活躍している。日本においても、慶應大学の速水融が切り開いた人口史研究と社会経済史学は、速水自身のインフルエンザ研究をはじめとして、斎藤修、鬼頭宏、友部謙一、急逝した浜野潔、山下麻衣らの優れた仕事を通じて、医療と疾病の歴史と深くつながり、国際的な連携を作り出している。この流れと関連する仕事として、猪飼周平『病院の世紀の理論』(2010)は、社会政策史の立場から書かれた、理論的な深さ・時間的なスパン・国際比較の発想を持つ優れた著作であり、川上武が代表する過去の医学史とのもっとも真摯な対決である。
文学と社会学も新しい医学史研究の軸になっている。文学の領域では、患者に注目した病気の文学や、文学に用いられた医学的な主題などが研究の中心になっている。福田眞人の『結核の文化史』(1995)は日本の近代文学と結核の連関を描いた傑作である。日本に拠点を持つ外国文学の研究者も医学的な主題を取り上げた優れた著作を発表してきた。ドイツ文学では石原あえかの『科学する詩人ゲーテ』(2010)などの業績があり、英文学では石塚久朗が18世紀から19世紀の文学と医学の関係を多様な手法で研究した論文を発表し、遠藤不比人は『死の欲動とモダニズム』(2012)などの作品で、20世紀のイギリスにおける精神分析と文学の関係を論ずるにとどまらず、類似の主題を研究するイギリスと日本の研究者を連接させてきた。社会学も日本における医学史研究の中核となってきた。落合恵美子・赤川学・市野川容孝らのジェンダーや身体の歴史社会学は、国際的な連関を作り出すと同時に数多くの若い研究者に影響を与えて、その中から水準が高い医学史の歴史社会学が現れてきた。宝月理恵『近代日本における衛生の展開と受容』(2010)や佐藤雅浩『精神疾患言説の歴史社会学』(2013)などがそれを代表するものである。
このように、日本の新しい医学史は、全体としては多様な学問領域と国際性を持つ領域に向かって急速に変化している。おそらく、それをもっともダイナミックに表現している領域は、精神医療の歴史であろう。もともと精神医学の歴史は、岡田靖雄の精力的な仕事が研究基盤を築いていたが、その上にたって、橋本明、中村治、既出の兵頭晶子、佐藤雅浩などの研究者の仕事が作られた。興味深いことに、この4人の研究者は、社会医学、哲学、民俗学、社会学など、それぞれ異なった学問領域で訓練されている。その中で橋本の活躍は特にめざましく、『治療の場所と精神医療史』(2010)・『精神病者と私宅監置』(2011)などの書籍を編集・著作すると同時に、ドイツ語と英語で業績を発表し、ドイツやイギリスの研究者と日本の研究者との連接を作り出している。また、この領域では現役の精神科医たちも活発に活躍しており、たとえば金川英雄は医師であると同時に呉秀三の著作『精神病者私宅監置の実況』を2012年に現代語訳して世に広め、風野春樹も患者としての島田清次郎の伝記を出版するなどの重要な貢献をしている。このようにめざましいダイナミズムが作られている背景には、岡田の活躍の他に、通常はなかなか交差しない学問領域が対話する場所として、日本精神医学史学会が大きな役割を果たしている。
医学史の未来―広さ・深さ・まとまり
前節<医学史研究の現在>で概観した状況は、欧米でも日本でも過去の一世代に急速に発展したものであり、同様の傾向がしばらくの間は継続するだろう。その発展の中で、日本の医学史の未来を考えるうえでとりわけ意識して取り組まなければならないのは、「広さ」「深さ」「まとまり」の三つのキーワードで表現される課題である。
「広さ」には、さらに多様な新しい領域で医学史が研究されるようになるという方向、かつての担い手であった医学部・医療系学部に帰っていくという方向、そして国際的な拡大の方向という三つのポイントがある。現在の医学史は、かつての医学史に較べてはるかに多様な学問領域で研究されるようになった。この意味での「広さ」の進展はこれからも続き、廣野喜幸の仕事に示唆されるような、障害学・環境学・リスク論・災害学・物語論などの未開発の領域における医学史研究は重要な成果を生むであろう。それだけでなく、かつて医学史が医学部から人文社会系学部に流れた道を逆にたどるかのように、人文社会系から医学部・医療系学部に帰っていくという方向も重要である。実際に、英米・ヨーロッパや台湾・韓国では、新しい医学史が医学部の教育に広がって、医学生が人文社会系の学問の立場にたった医学史を教わる制度が作られている。また、このメカニズムによって、より深い医学史の視点を持った医者が作られている。現在の日本の医学校では古いタイプの医学史が教えられて不人気であることが多いが、これにかわって新しい医学史が教育に広がっていく可能性は高いだろうし、それを念頭に置いて教育を設計するべきであろう。また、国際的な研究の広がりであるが、グローバライゼーションの現代において、学者が国境と母国語の限定を超えて活躍することは標準的になっており、医学史も例外ではないことは贅言を要しない。外国に拠点をおく日本出身の医学史の研究者も多く、日本に拠点をおく研究者においても、外国語で研究を発表することは目標として受け入れられている。外国人の学者が日本を対象として医学史を研究することも、欧米や東アジアを中心に確実に拡大している。医学史の国際的な広がりはこれから拡大し続けるだろうし、それを念頭においた教育と研究の仕掛けを作ることが必須である。
「広さ」に加えて「深さ」も医学史の発展にとっていっそう必要になってくる。新しい医学史が現在まで発展するときに、ミシェル・フーコーを筆頭にした学者たちが理論的な「深さ」を与えたことは大きな貢献をしたことは、常に意識されなければならない。しかし、「深さ」を達成するためにより重要な課題、おそらくもっとも真剣に取り組まなければならない課題は、歴史研究としての医学史の生命線である史料の問題である。史料の発見・整理・アクセスの確保・情報の共有が、欧米の医学史研究の急速な発展を支えたインフラ整備であった。そのようなインフラを利用して、欧米の医学史は利用可能な資料に関する膨大な情報が流れる領域にさまがわりした。医学史の発展期が同時にインターネットの拡大期であったことは意義深い。たしかに、かつての医学史研究においても、著名な医学者の著作を中心に資料の刊行・復刻は行われていたが、近年においては、比べ物にならないほどの量のさまざまなタイプの資料が利用・閲覧できるようになっている。このような資料は各地で発見されて、地域の図書館・文書館・博物館などで保存・整備されたうえで、それらの資料についての情報が学会のニューズレターで研究者に紹介される。イギリスではウェルカム医学史図書館や社会医学史学会、アメリカでは国立医学図書館歴史部門やアメリカ医学史学会が、資料を保存しその情報を研究者に紹介する役割を果たしている。このことが、イギリスやアメリカで医学史研究が深化して洗練された歴史学となった最大の要因であるといっても過言ではない。それと同時に、これらの資料は歴史学者のためだけに保存されるのではない。人々がそれを閲覧して医療の歴史について考えることができるようにすることも大きな目標である。ウェルカム医学史図書館がそれが所有する100万件あまりの画像を自由に利用できるようにネット上で公開したことは、医学史が「人々のもの」であるという状況を象徴している。日本においても、このような動きの萌芽は存在している。前述のハンセン病資料や、精神医療の資料の探索・発見・整理・情報の共有がその例であるし、日本アーカイブズ学会は2013年に<医療をめぐるアーカイブズ>という特集を組んで医療資料への関心を明瞭にした。このような動きをどこまで具体化し拡大し定着できるかが日本の医学史の未来を大きく左右するだろう。
最後に「まとまり」について触れよう。医学史研究は学問の視点の多様性を持つ領域になったことをこの小論は論じてきた。このこと自体は喜ばしいことである。しかし、欧米諸国や台湾・韓国などの東アジアの医学史の先進地域と日本の状況を較べたときに、この小論が多様性と呼んだものは、断片性と呼ぶほうがより適切な場合もあることも冷厳な事実である。日本においては、研究者がそれぞれの領域で閉鎖的に研究しているため、同じ主題や類似の主題に関する別の領域の研究成果と連関しないままでいることがあまりに多い。イギリスやアメリカにおいては、この連関を形作ったのは、既存の研究体制を支えてきた医学史の研究機関や学会が変質・拡大することであった。英米の医学史は多様性を推奨すると同時に、その多様性が共存して出会う仕掛けを常に機能させてきており、具体的にはウェルカム医学史研究所やアメリカ医学史学会がその機能を果たしてきた。翻って日本を見たときに、日本の医学史の既存の体制はこれに匹敵する役割を果たしていない。日本医史学会のいくつかの革新の試みは結実していないし、関西の医学史研究会はいちじるしく弱体化した。そもそも、<医学史の現在>で紹介した新しい医学史の研究者の大多数は、日本医史学会を研究発表の場としていないし、会員ですらない場合が多い。それに較べると、日本科学史学会は金森修、松原洋子、愼蒼健などを中心に、新しい医学史と深い関係を築いてきたが、医学史の未来にとって重要な課題である、医学史と医者・医療者・患者の連接をまとめる主体として科学史学会がふさわしいとは思われない。どこが、どのようにして医学史研究をまとめて、多様な力が出会う場を作るのかという問題は、近い未来における日本の医学史研究に大きな影響を与える一つの焦点になるであろう。
このように、日本の医学史の未来には、解決の試みがはじめられたばかりの問題も多い。しかし、この小論の筆者は、その未来についてオプティミスティックである。それは、研究者の数が増え、彼らが高い能力とひたむきな情熱を持っているという事実にとどまらず、現代社会における医療の未来の問題と深くかかわっている。医療が科学技術の発展だけによって進歩し改善するという信念は、先進国においては過去のものになった。それにかわって欧米で定着し日本でも形成されている新しい信念は、医療を科学的・技術的であると同時に社会的な現象でもあると捉え、医療者と患者が環境・文化・社会の中で営む行為全体を向上させることが「医療の進歩」であるという考えであろう。そのような意味の医療の進歩には、新しい医学史研究が必須であることは言うまでもない。時代の風は、世界においても日本においても、医学史の未来に向かって吹いている。この風を見分けて、現実を見据えたうえで的確な帆を張り、広い文脈と長いタイムスパンの中で医療の姿を明らかにすること。このような医学史には確実に未来が開けている。私たちにとっての課題は、どのような姿にこの新しい医学史を仕立て上げるかを考え始めるということであろう。今から10年ほどまえに出版された論文集であるLocating Medical History (2004) の編者たちは、驚くべき多様性を内に持つようになった医学史が、その未来についての重要な選択をおこなう時期にさしかかっていると述べた。日本の医学史研究も、これまでの発展を言祝ぐだけでなく、領域としての選択を念頭におく時期を迎えているのだろう。
追記:本稿の草稿について、梅原秀元、佐藤雅浩、愼蒼健、高林陽展、廣川和花、宝月理恵の諸先生にコメントを頂いた。不備や欠落はすべて筆者の責任である。字数の関係で、本稿は文献の説明を割愛したため、文献案内としてReaD/Researchmap に鈴木晃仁「医学史の過去・現在・未来―文献案内」のタイトルの文書を公開する。