明治東京のスラム・クリアランス



必要があって、明治東京の市区改正を論じた古典を読む。文献は、藤森照信『明治の東京計画』(東京:岩波現代文庫、2004)

明治14年に東京防火令が出て、中央三区(神田、日本橋、京橋)の主要街路および運河沿い家屋へのレンガ、石、蔵造りによる路線防火体制と、そのほかへの瓦葺き屋上制限の条例を発布し、それにかなわぬ既存家屋の改修を命じ、明治20年に完了する。明治に入ってからも、この三区で一万棟以上が消失する火災は三度もあり、特に14年の神田の松枝町に発した火災は1万5千棟以上を焼失させた。しかし、防火令が施工されたあとは、三区の大きな火災はあとを絶つ。

明治14年の火災の跡地を前に、神田橋本町という「細民が輻輳する」街区のスラムクリアランスが行われる。この地は、陋隘の家屋が密集し、窮民に貸与された、当時の用語で言う「木賃宿」が集まっていた。「木賃宿」とは、通常は食事がつかず、かろうじて雨露をしのぐことができる程度の部屋を貸すある種の宿屋であった。この種の宿泊施設は、日雇いなど定業がないものや無職のものたちが集まって住むところとなっており、当局は、明治20年の「東京府内宿屋取締令」で、木賃宿を開業できる街区や土地を限定することとなっていた。特に橋本町においては、江戸時代の文政年間以前から仏教僧のふりをして「アホダラ経」を唱えて各地で乞食をする「願人」と呼ばれるものが集まっていた。

この地が明治14年(1881年)の神田の大火で全焼したのをきっかけに、東京府は、いわゆるスラムクリアランスを行う。橋本町の一丁目から三丁目まで6650坪を当時の金額で6万7503円で府が一括して買い上げ、買い上げ後に土地を売るもの、建築を許す建物を制限することで、木賃宿が密集し乞食が群居する地域から脱却を図ろうというものである。この計画は、地主や差配人の抵抗にあいながらも成功し、橋本町は周辺の地域と同じ、職人と小商人の町として再生された。明治19年の四谷の元鮫ヶ橋のスラムクリアランスも同じ手法で行われたという。

その理由は三点、防火上、衛生上、そして首都としての体面であった。防火と体面はおいておいて、衛生の話をすると、この地は悪疫流行のときに「救うべからざる惨毒」をもたらしたという。これはおそらく明治12年(1879年)のコレラのときの被害を言うのであろう。

写真は明治40年の橋本町のあたりの地図。現在の日本橋馬喰町一丁目にあたる。