必要があって、明治14年の東京の大火の後に行われた、スラムクリアランスの資料を読む。文献は、『日本近代思想体系 都市・建築』藤森照信編(東京:岩波書店、1990)に収録されている、「東京十五区臨時会議事録」と「橋本町元差配人嘆願書」。それぞれ, 7-36 ページ、37-38ページ。 この事件については、藤森照信『明治の東京計画』(東京:岩波現代文庫、2004)に比較的詳しい説明と、その後の東京の都市計画の中での位置づけが議論されている。そこでは軽く触れられているだけの、明治12年のコレラについて。
橋本町は、現在の東神田一丁目のあたりに広がっていた街であった。そこには木賃宿が集まり、阿呆陀羅経(本文では「すちゃらくぽくぽくと唱えて歩く青堕落経」というように紹介されている)を唱える願人坊主と呼ばれたものなどが集まる、悪名高いスラムであった。周辺住民もこの土地の住人を不潔と嫌って湯屋に入るのを禁じるとか、地名変更の時に「橋本町」への改名を拒んだりと、典型的な差別行動を取っていた。この地域が明治14年の東京の大火で焼失したときに、この機をとらえて橋本町に巣食う貧民を一掃するために、当時の東京市を構成していた十五区は、橋本町の民有地を買い上げる臨時会議を開いた。そこでは、十五区の代表たちが、この地域から貧民を立ち退かせ、防火と衛生の観点から見て安全な街に生まれ変わらせるために、どのような方策があるのかを話し合っている。
衛生上の観点ということがしきりに強調されている。「前年悪疫流行の際、該地ことに甚だしく、ほとんど救うべからざるの惨毒を逞しくし」とある。これは、もちろん、東京市で一万人くらいの患者を出した明治12年のコレラを指すのだろう。そのような注も付いている。しかし、私のデータベースだと、橋本町一帯の被害はむしろ軽微といってよい。橋本町一丁目から三丁目まであるが、罹患率はそれぞれ10万対で1356、519、198となる。一丁目の1356は確かに高めだが、同じ神田の中で較べると、三河町の3451, 千代田町の3321, 和泉町の3083が高く、橋本町の数字はそれほど大騒ぎするようなものではない。これは、私のDBが間違っているのかもしれないし、もともと橋本町の患者は補足できなかった可能性も考えられるけれども、橋本町のコレラ被害そのものはたいしたことはなく、周辺地域のコレラ被害が橋本町の「せいにされた」可能性もあるだろう。