加賀藩のコレラ

必要があって、加賀藩のコレラと天然痘の流行を調べた地方史研究の論文を読む。文献は、前川哲朗「疱瘡・コレラの流行と対策―藩政期疫病史の試み―」『市史かなざわ』6(2000), 62-76. 

本吉(たぶん、現在の白川市美川本吉で、本吉湊があった)、福浦(同じく、現在の羽咋郡志賀町福浦港のあたりだろう)で大きな被害が出た。入船の船中で流行して被害が広まったことは、明治期と似ている。このときは、「稼ぎ人、船方、猟(漁?)師、下人の者ばかりが罹った」という記述があった。藩は、流行病につき、魚類を初めて(この「初めて」の意味がよく分からない)食べるときには十分食べるようにというお達しを出した。それというのも、上総の勝浦の旅宿で、上等の鰯が出されたときに、江戸で食べるものとは違って新鮮だと喜んで三杯も食べたところ、その鰯にあたって三人が(コレラで?)即死し、江戸でも、鰯を食えばコレラで死ぬという風評が流れていた。(70) 文久二年の流行の時には、コレラに対して唇から瀉血をするといいという書物も書かれたという。

この幕末のコレラ流行と西洋化の波をうけて、加賀藩も撫育所、病院などを建設し、それまで黒川良安に命じて種痘を行わせていた養生所と合わせて、公衆衛生政策を展開しはじめたが、明治維新と廃藩置県の混乱の中で廃絶されたり移転されたりしたものが多かった。いつも感じるのだけれども、藩というか地方レヴェルの医療施設で見ると、明治維新は新しい出発というより、むしろ頓挫だったと思う。

加賀藩の藩主は全部で14人いるそうだけれども、そのうち10人は疱瘡にかかった年齢が分かる。それぞれ、53、21、8、16、15、11、31、46、12、18歳(数え年)で罹っている。これは、正直言って、天然痘は1500年までには小児病化していたと確信していた私としては、ものすごく動揺するデータである。いくら、藩主が天然痘にかからないように、家族に天然痘の患者がいる場合には登城しないようなお達しが出ていたとはいえ、江戸の藩主というのは、それほど疫学的に隔離された空間で暮らしていたんだろうか。