遠藤周作「松葉杖の男」

遠藤周作「松葉杖の男」 遠藤周作に「松葉杖の男」という短編があり、精神分析医の診療の様子が淡々と描かれている。20年以上前に読んだ作品である。先日の学会で、戦後のアメリカで行われていた心理テストの話を聞いて、この作品のことを思い出していた。ちょうど、まったく別のメールでも、この作品に触れるような話題が交わされていた。二つの偶然が重なったわけで、本当に久しぶりに、収録されている短編集を掘り出して読み直してみた。 精神神経科の病院に勤務している精神分析系の若い医師を主人公にしている。初出は1958年10月の『文学界』。当時は精神分析を教える医学校は少なく、おそらく状況から言って、遠藤が慶應医学部の精神科の医者から取材したのだろうと想像している。  主人公は菅という名前の病院に勤めている精神分析医。同僚の入江は、ロボトミー、電気ショック、麻酔分析といった強力に介入する治療と分析をするので颯爽とした成績を上げているが、それらの使用をためらう菅の治療の成績は芳しくない。そこにやってきた患者は同い年の加藤というくたびれた感じがする35歳の事務員である。下肢に麻痺・脱力感があり、両足に硬直が出てしまい、他の病院で診療を受けたが「セネストパチー」(心理的な苦しみが身体化された疾患)を疑われて、菅の病院に送られてきた。ラポールの開始、おしゃべりの中から子供時代に話を移行させること、ロールシャッハテスト、アメリカで行われている絵が描かれたカードを示して心に浮かんだことを自由に語るT.A.T.、ゲシュタルト検査、これらのテストから、加藤が年配の女性に抵抗を持っていることがわかるが、それ以上に彼の記憶の中に入ることができず、かえって加藤は「精神分析医の関心をひきそうな反応」にするために小さな嘘をつくようになる。菅は人物画を写させるテストをすると、彼が女の目を非常に強く鋭く描くことがわかる。このテストは「ハックやマッコーバの方法」であると記されているから、DAPテスト(Draw-A-Person)や、HTP テスト(House-Tree-Person) のことであろう。最終的なカタルシスは、二回目の描画テストのときに訪れる。テスト開始の前に加藤はテストを始めることに強く抵抗し、泣きそうになるほどであったが、同じように年配の女の目を写すテストをするうちに、抑圧していた記憶を思い出す。それは、中支戦争で捕虜を一人手足を縛った上で地面に転がして銃殺したときに、彼の母親がそれをみて泣きわめていたという経験であった。菅は加藤に色々と言ってみようとするが、そのいずれもウソかズレを持つものであることを悟る。しかし、戦争を経験した彼らは、それを解決しないまま生きていくしかないのである。 「松葉杖の男」が収録されている『月光のドミナ』は、記憶の断片として散らばっていた短編が一冊の本にまとまっている感じで、医学史に参考になる作品が多い。「イヤな奴」は、御殿場のハンセン病院を訪問して野球をしたりするキリスト教の寮の学生たちの話。「月光のドミナ」はマゾヒズトを主題にした作品で、見かけも雰囲気も言葉遣いも性格も、すべてが徹底的におぞましい変態のマゾヒストが主人公で、白人の裸の女に夜の砂浜で頬を激しく撲られる経験をもち、フランスに留学して自滅的にドミナのもとでマゾヒズムの「凌辱」のコースをたどる。