ヘンリー・ジェイムズ『アスパンの恋文』行方昭夫訳(東京:岩波書店, 1998)
偉大な詩人アスパンを研究している文学研究者が、アスパンが愛した女性が年老いて生きていると知って、彼女が住むヴェニスに家に下宿して、アスパンが彼女に宛てた恋文を入手しようというストーリー。ヘンリ・ジェイムズの繊細な筆が、個人の記憶が染みついた古文書をめぐる人間模様、ヴェニスの街と古い館、文学史研究の醍醐味と残酷さなどを描き尽した中編小説である。人文系の学者であれば人生の中で一度は必ず読まなくてはならない作品であり、特にヴェニスに行くときには読まなければならない。なにより、この小説を読んだ人生というのは、そうでない人生に較べたときに、深みと呼べるものが現れると思う。
この作品には複雑な深くて懐かしい思い出がある。訳者の行方先生は、私の学生時代には東大駒場で最も畏怖された英語教師だった。行方先生の授業は、英語を的確に理解するというのはそもそもどういうことか、何をしたときに「この英語の文章を理解した」と言えるかどうかという、外国語学習の基本と究極の理解を東大駒場の学生に叩き込むものだった。教養学科の学生の英語の力は決して低いわけではないが、行方先生の授業に出ると、自分がいかに英語ができないかを誰もが実感していた。特に行方先生が厳しかったのが、英語がきちんと読めていないのに解釈を振り回す学生であり、この文庫の解説の言葉を借りると「生半可の知識を振りまわす者」であった。そういう愚かな真似を行方先生の前でして、上品だが痛撃となる教えをいただくのは圧倒的に男子に多かった。女子学生については、知的・学問的にどぎつい野心を持っていない、お嬢様風の英文学研究をしている女子学生を集めて、私的で優雅で英語を読む能力が戦慄するほど高い読書会が行われていた。そういう男子学生と女子学生が出会って恋に落ちると、ちょっと面白いことになることを、私はよく知っている(笑)