ナラティブ・ベイスド・メディシン

Holmes, Jeremy, “Narrative in Psychiatry and Psychotherapy: The Evidence”, Medical Humanities 2000, 26: 92-96.

精神医学におけるナラティブの重要性を説き、特に精神療法において患者のナラティブの役割を検討した論文である。医学においてエビデンス・ベイスド・メディシンに対してナラティブの重要性が唱えられるようになった運動における重要な論文である。読みやすくて、ナラティブの概念のコツをつかむのにいい。

 エビデンス・ベイスド・メディシンが医療の現場に取り込まれ、臨床の判断が数値化され標準化された証拠に基づくようになったとき、数値化しにくいもの、患者の個性といった標準化されにくいものなどを扱う能力が臨床から失われることを懸念する声が上がった。その流れで現れたのが「ナラティブ」の概念であり、EBMに対抗してナラティブ・ベイスド・メディシンと呼ばれる一つの立場であった。類似の対立は、「患者を診るのか病気を診るのか」という、西洋医学の歴史に常に存在している根本的な構造と重なっているというのが医学史の研究者の直観だと思うけれども、まだきちんとした研究書などを読んだわけではない。

 ナラティブの重視と因果関係の問題について、面白い論点が一つあったので紹介する。EBMは基本的には疾病や症状との因果関係にまつわるものである。たとえばダウン症について、かつてはダウン症児が母親の胎内にいるときの母親の心理状態が発生に貢献するという説があった。その原因論が支配的だった時代には、ダウン症児を産んだ母親たちは徹底的な問診の対象になった。無数の自責的なナラティブ、あるいは他責的なナラティブが語られたことと思う。しかし、ダウン症の原因は21番目の染色体異常、いわゆる21トリソミーであることがわかり、それまでに用いられたすべての問診が無意味であったこと、そこから引き出された自責のナラティブは母親などを苦しませる効果しかなかったことが明らかになった。そうなると、21トリソミーというエビデンスを求める医学が優れていて、ナラティブは無意味かむしろ有害ということになる。

 この議論に対して、この著者は、これは因果性についての議論であると指摘する。因果性には意図的な intentional なものと、非意図的なもの non-intentional なものがある。人によるもの man-made なものか、それとも人による作用が及ぶ範囲にあるかという違いと重なる。通常はこの二つのジャンルの因果性は相互に影響しあいながら作用している。うつ病が、神経系の内部でも血液の内部でもいいが、ある物質の存在の結果であることが事実だとしても、その物質は、患者の意図的な行動や行いによって起きていることもある。(このあたりの理屈がよくわからない)

 患者の精神病の発作や事件などを起こして精神病院に運ばれるときには、一つのエピソードがある。医者がやることは、そのフラグメントがあてはまるストーリーをみつけることであり、患者自身が自伝を書くかのように、そのフラグメントをはめ込む手伝いをすることである。患者の auxiliary autobiographer となるといってもいい。 精神療法の手技は、メタファーでありストーリーであり、ナラティブ能力を高めることである。