医学史と映像の歴史

Cartwright, Lisa. Screening the Body : Tracing Medicine's Visual Culture. University of Minnesota Press, 1995.
 
今から20年以上前の刊行書で、医学と映画の問題が歴史学の主題になり、その成果を世に問うたごく初期の書物フーコーやドゥーデンといった当時の流行の枠組みが中心だが、19世紀末から20世紀前半の医学史のある部分を非常に深く鋭くつかんでいる記述が随所にあり、非常に面白く読んだ。大学のオンラインアクセスで読んだが、この本は紙媒体で持っておこうと決心して、紙の本を買った。3,000円くらいである。 イントロと第一章だけまとめるが、それ以降の各論もとても面白そうだった。
 
冒頭におかれたドゥーデンの事例が書物の基調を語る。女性の身体の内側を画像化して、体の内側から裏返しにして人体を表現するような一連の技術を再検討しようという試み。具体的には、木版画、X線、超音波画像である。カートライトの書物も、女性が取り上げらることが多く、また時期は19世紀末から20世紀中葉の医学研究における動画、あるいは医学や身体と関連する動画を取り上げている。身体の内部を画像化すること、そしてそれを動画で表現することが、20世紀の科学を通じた規律管理の方法であるという。生理学は、生命は複雑な組織のネットワークであり、それが変化しながら秩序を保つホメオスタシスの状態にいる。
 
リュミエール兄弟は映画を開発したのち、すぐに写真産業を始めた。これはカラー写真の開発であり、科学や医学で用いられる写真であった。医学では、「ノン・ピクトリアルな」表象が重要になっていた。筋運動描記法、キモグラフ(血圧や呼吸などの波型曲線記録器)、心電計などが、身体の内なる動きを記録していた。ここには、患者の身体との接触が必要であり、また患者や人が意図しない身体の動きに関心が集まった。くしゃみをする美少女の連続写真が企画され、女性の犯罪者などの瞬間を切り取った写真などが撮られた。

アフリカのトライブごとの芸術の入門書

Bacquart, Jean-Baptiste. The Tribal Arts of Africa. 1st pbk. ed ed.: Thames & Hudson, 2000.

f:id:akihitosuzuki:20170813113511j:plain

 

アフリカの芸術をトライブごとに説明してくれる素晴らしい入門書を、実佳がロンドンのRAで買って送ってくれた。心から感謝。これで、アフリカの芸術が少しは分かるようになる。

私は総じて無趣味な人間だが、趣味としてはアフリカの仮面を集めている。アフリカの仮面を買う時に、売り手はもちろん国の名前では言わず、トライブの名前でいう。アザンデとかドゴンとかヨルバなどである。このトライブの名前は、ほとんどが聞いたこともないものである。これが分からないとアフリカの芸術の世界に入っていけない。(「備前焼」「益子焼」などの地名が重要なユニットになる日本の陶芸の世界に少し似ている) 先日、プヌ族の仮面を買おうかと実佳とメールで相談したりしたので、トライブで調べることができる便利な美術書を買って送ってくれた。既に膨大な量に達している研究に基づいて、トライブの芸術の特徴を社会に絡めて4ページずつでまとめ、よくわかる画像を付した素晴らしい書物である。

 

 

中国タバコの世界

川床, 邦夫. 中国たばこの世界. 東方選書. Vol. 33: 東方書店, 1999.
 
著者は東大農学部を出て日本専売公社に入社して、インドや中国にタバコの栽培を教えに行った。そこで、各地のタバコの利用についての知識を得て、本書を書いた。これが、ものすごく面白い。植物学、歴史学、農学、タバコの社会的な側面など、多様な領域のことが描き込まれた一冊である。もとは図書館で借りたが、すぐに中古の本を買っておいた。歴史の話、タバコに関する民話の話、有名人とタバコの話など、面白い話が多い。魯迅は仙台でタバコを憶え、シガレットの両切りの「リリー」を吸っており、友人に必ず「お前も吸うか?」と勧めたとのこと。
 
タバコに関する詩もいい。
 
『神農』に見るに及ばず 『博物』にも幾たびか かつて聞く
仙翁の火を吐くに似て 初め異草の薫りかと疑う
腸に充ちて滓濁なく 口より出ていんうんあり (いんうんは、「気氳」のような漢字。雲霧煙気がたちこめる部屋のことで、万物流転の中国哲学用語)
妙趣は偏に相想う 喉にまつわる一朶の雲 
 
これをメモしたのは、「一朶の雲」。この言葉は、司馬遼太郎坂の上の雲』で使われている。司馬の作品はそれほど好きではないが、「一朶の雲」というセリフは私にとって大切な言葉である。その言葉を、これまで司馬遼太郎でしか読んだことがなかったから、メモしておいた。陳元龍という清代の進士の作品である。
 
「阿片」は opium を中国風に音訳したとのこと。知らなかった。
 
水タバコは何かを初めて知った。ドクトルマンボウの冒頭で出てきて、その時から何だろうと思っていたものである。中国の辺境で売られている。長さは75センチから1メートルくらいあり、タバコというより野球のバットかゴルフのクラブのような感じである。
 
マホルカタバコも知った。ロシア語の maxopka の音訳。馬合とか莫合などと書く。ルスティカタバコの葉を粉にして、これを新聞紙で巻く。新疆ウイグル自治区で吸われている。シガレットに圧されて、1980年代ですでに激減していた。ちなみに、パプアニューギニアもマホルカを吸うが、こちらは長い新聞紙で巻き、世界で最も多く新聞紙を吸う国と言われているとのこと。
 
ビンロウに関する陰陽の話をメモ。仲の良い夫婦の妻が臨終のときに自分の墓からびんろうの木が生えるから、その実を採って噛むと憂さを忘れるわよという。噛んでみたら素晴らしい。この実は結実するときに、初期には形まで女陰に似ている。これが女だとすると、男性の実はビラ(キンマ)であり、石灰はその淫水である。キンマを調べて意味が分かったが、なんだその無理やりの陰陽説は(笑)
 
 
 

731部隊によるペスト保菌ネズミの検査法の研究

 
保菌についての史料を読んでいたら、満州でペストを保菌している鼠を研究した論文が出てきた。執筆者は春日忠善(かすが ちゅうぜん)1940年に「ペスト沈降反応の特異性に関する研究」という博士論文で慶應義塾大学から博士号を得ている。没年近くだとおもうが、1990年に3ページくらいの追悼記事が書かれているのでそれを後から読む。731部隊と関係が深い人物である。個人を焦点にした研究はないようであるが、ネット上では、731部隊に所属していたが、戦後に栄誉ある職を歴任して多くの学術賞を受賞したことで批判されている。また、731部隊の研究で優れた業績を上げた常石敬一が『戦場の疫学』の脚注で、この論文を含めて春日に何度も言及している。哀しいことに、この書物の5章は、本文と脚注の構造が崩れていて、脚注11を超えると、本文に註が打たれていないのに脚注だけが現れるという宜しからぬことになっていて、常石が何を言いたいのかよく分からない。
 
ペスト 抗 Env. P 沈降素血清が、ペスト感染動物臓器の加熱食塩水浸出液ともに、特異的に反応すること。保菌ネズミの検査法のうち、最も優秀な方法であること。この2点が主たるポイントである。
 
731部隊の犯罪として、中国人やソ連人の捕虜や政治犯で人体実験を行ったことが最も悪名高いが、その様な人体実験を行った理由は、主にペストを用いた生物兵器を開発し、実戦で用いたからである。731部隊の特徴は、生物兵器としてペストを用いる作戦を、詳細にわたって考えていたことになる。そう考えると、この春日論文の幾つかの部分が説明しやすい。実際にペスト流行があった村の患者がいた家屋、村から捕まえたネズミ、周辺の村で捕まえたネズミが、ペスト保菌状態になった状態でそれを迅速に検出する方法の開発という論文の目標は、たしかに生物兵器の効果を空間的に把握する目標とつなげて考えることができる。それから、いくつかのペスト菌の種類というか系列を持っていて、その系列を、保菌ネズミから逆に特定できるかということを考えているのも、生物兵器の利用と関係があるように見える。もちろん、そうではない、これは保菌状態のネズミをできるだけ早く発見する防疫の実験であると反論することもできる。
 
ペストのエンベロープというのは、昭和13年に刊行された細菌学の教科書を読むきちんと説明されている。ペスト菌を普通寒天で37度で培養すると、菌体の周囲にゲラチン様の膜ができる。これを envelope substance という。これを、菌体浮遊液を60度で加熱して菌体から離し、上層に集めて、これを遠心機を利用して菌体から分離することができる。ここには、somatic antigen は含有されていない。これは、ペスト菌の特異性を決定し、これで動物を免疫すればペスト感染に対する防御免疫力を与える。 倉内喜久雄という731部隊の医師が、これを用いてペストの新しいワクチンを作成した。
 
中村, 豐. 細菌學血清學檢査法. 増訂2版 ed.: 克誠堂, 1938. 1021-1022.  に書いてある。 
 

パウル・エールリヒという変人医学者

De Kruif, Paul, and 寿恵夫 秋元. 微生物の狩人. 岩波文庫. Vol. 青(33)-928-1-2,33-928-1-2: 岩波書店, 1980.
 
ポール・ド・クライフというアメリカの科学ジャーナリストが1926年に出版した書物 『微生物の狩人』Microbe Hunters は、おそらく歴史上最も売れた医学史の書物である。アメリカでは当時(おそらく)100万部の大ベストセラーとなり、日本語訳もすぐに刊行された。現在でも岩波文庫で読むことができる。私は本が何部売れたかを調べるツールを持っていないので見当がつかないのですが、これ以上売れた医学史の書物に心当たりがある方がいますか? 
 
ベストセラーになった本書だが、医学史の先生として言うと、本当は読んではいけない(笑)。だってあまりにも面白すぎるし、そして何の註もついていない。アメリカ人のジョークがほとんどですよと言われても、まったく驚かない。でも、実は、もちろん読んでいる(笑)今回も、パウル・エールリヒについての、おそらく本書で一番面白い章を読んだ。以下はド・クライフの書物のまとめ。もっと真面目な文献を読みたい方は、パウル・エールリヒ研究所に非常に充実したサイトがあり、彼の論文は非常にたくさんPDF化されているし、彼に関する文献に一発で到達できるので、そちらを参照されるとよい。サイトは以下の通り。
 
 
エールリヒは最強の変人である。おそらく多くの学者はこうなりたいだろうと思う。私自身も、かなりこうなりたい。少なくとも、こういう同僚がいると、大学は楽しいと心から思う。学部は別の学部でなければいやだけど(笑)
 
エールリヒはユダヤ人で、飲酒、喫煙、そして中年以降は炭酸水の愛好家だった。お酒は主にビールで、研究所の小使いと毎晩のみ、学者が尋ねていくとビールを飲んだ。タバコはシガー(葉巻)で、それを一日20本。シガーは研究所はもちろん、自宅のベッドでも吸っていた。部屋は世界中から集めた雑誌でいっぱいで、ネズミがそこで巣をつくっていた。雑誌を買いすぎ、高いシガーをたくさん吸い過ぎたせいで、いつも貧乏だった。高級な芸術や音楽や文学には何の興味もなく、安手の時代小説を読んでいた。人々は「夢想家先生」と呼んでいた。「じつに奇妙な、頭脳の働きのどこかが間違っているのではないかと思われるような、非科学的な妄想に捉われていた」という。
 
医学部に入って、非凡な学生ではあった。ラテン語を憶えるのが得意で、この能力は終生続いた。しかし、医学生としては最低だった。先生に言われたことをやらない。用語を憶えない。死体から薄片をつくれと言われると、それを色素で染めて喜んでいる。医者としては無力であり、無能であった。患者や病人を相手にしなくてよい「科学者」のポジションが医学教育の中に作られて本当に良かった。また、彼は無神論者であったので、人間神が必要であった。その役目は、ロベルト・コッホが担った。コッホが「発見」した結核菌は、コッホのもとで助手であったエールリヒも観察していたものであり、それを染める技術は、エールリヒが提供したものであった。
 
免疫について色々考えていたが、色付きの奇妙な図を次々と書いて、意味不明なことをしゃべりまくって悦に入るだけだった。なぜそんな説が成立するのか理解できない奇怪な説を唱えていた。学会で論破されると、帰りの電車で怒りまくって「あの男は恥知らずのアナグマだ!」と数分おきに大声で絶叫し、車掌ともめごとになった。しかし、大発見を次々と行い、数々の栄誉に輝き、1906年にはメチニコフとともにノーベル賞に輝いた。でも、そんなことはエールリヒにとってどうでもよかった。
 
1909年に梅毒を治療できる606号、いわゆるサルバルサンを発見した。世界中に衝撃と興奮が走った。人類を広範に深く侵していた疾病が治るようになったのである。1910年の学会で報告した時には、聴衆の拍手が永遠に続いて、講演時間がなくなってしまうほどだった。エールリヒもさすがにうれしかったらしい。しかし、この段階で彼は抜け殻になっていた。この発見を称して、7年間の血みどろの痛ましい年月のあと、幸福だったのは一瞬だけだったと言っているという。 
 
・・・ほら、面白すぎるでしょう?(笑) 
 
この変人に、日本の細菌学者が二人仕えている。志賀潔と秦佐八郎である。どちらも、献身的に仕え、無類の手先の正確さと長時間の仕事をやりぬいた。日本が上昇するときに、確かに必要な態度であった。しかし、別の仕方で独創的な研究をする態度を、大学や大学院は考えなければならない段階に入っている。
 
 

18世紀ロンドンの外科医・解剖学・人骨

 
 
ロンドンで仕事をして日曜日には観光地に行って感心している実佳から初めて聞いた、18世紀のロンドンの外科医で解剖学を教えていた Willaim Hewson が用いた人骨の発見と分析のお話し。ちょっと調べたら素晴らしい話で、簡単な報告の論文を読んでメモ。ちなみに、Wikipedia の International Archaeology の巻号が間違っていて、下のものが正しい。そのままPDFをDLできるし、いい写真もあるので、ぜひお読みください。
 
1998年にロンドンの Benjamin Franklin House を建て替えたりしているときに、地下から人骨、動物の骨、水銀が出てきた。さらに、陶器、ガラス、金蔵なども出てきた。人骨がまとまって出てきたから、何か犯罪があったのではないかという疑いもあり、なんといってもベンジャミン・フランクリンが住んでいた家だから、大きな話題にもなったらしい。ただ、そこで外科医の William Hewson が医学校を開いていたこと、彼が解剖学でリンパ腺に関して重要な発見をしていることなどから、ヒューソンが死体を用いて行った実験で用いられた人骨だろうということになった。
 
人骨や動物の骨、そして水銀などを調べた結果、これらの埋蔵品が、ヒューソンの重要な研究をかなり再現していることがわかった。なんといっても、考古学の発掘現場で、液体の水銀が流れているのは、考古学者たちにとってもスリリングな経験だったらしい。この部分、今は調べている時間がないけれども、水銀を用いてリンパ腺の構造か何かを特定する研究を、人間と動物を用いて行っていたことが確定できたとのこと。他の博物館にもあるヒューソンの業績とも重なっており、素晴らしい発見となった。
 
一方、この論文では必ずしも強調はされていないが、この人骨は医学の発展の影の部分の象徴である。ヒューソンが用いた人間の死体は、ロンドンの墓から業者によって盗まれて供給されたものである。この業者をリサレクショニストという。墓を暴いて人骨を盗むことは、もちろん非合法であり、非合法な業者との結びつきに、医学の進歩が依存していた。また、論文を見ればわかるように、その死体の頭蓋骨に円形の穴がいくつもあけられていたありさまは、「ううううむ」である。
 
しかし、いい側面で話を終わろう。この研究は、医療の施設に、考古学者、解剖学者、医学史研究者たちが関与して、素晴らしい洞察をもたらしている。このような業績がもたらされることが、医療の発展であり、歴史の発展であり、文化の発展であると私は思っているし、イギリスやアメリカ、そしてヨーロッパの国ではそのように思われている。日本のあるお医者さまが「なぜ歴史学者が医学の資料を見るの?何の意味があるのかわかんない」とおっしゃっているとのこと。こういう意味があるのです。

戦前の伝染病院での保菌者研究

柴山、知輝. "腸「チフス」ノ保菌者ノ血清反応ニ就テ." 日本伝染病学会雑誌 14, no. 2 (1939): 85-112.

翌年の1940年に「腸チフス保菌者の血清反応について」に対して東大医学部から博士号が授与されている。日本伝染病学会雑誌の論文は、かなり詳細で本格的なものなので、かなりの部分が博士論文に取り込まれているのかもしれない。警視庁と東大の関係は、当時の警視庁の井口乗海が推進していた動きである。戦後は、1948年に伝染病の知識と手当についての一般向けの書物、食品衛生についての書物を高木六郎と共著、1949年には予防接種についての書物で、予防接種法を解説するという章を担当し、警視庁の医師としての力を見せているのだろう。1950年代に、それまでと違う優生保護法に関連する受胎調節の論文を助産婦雑誌に出し、1955年には「家族計画の実験」を発表している。

腸チフスの保菌者の論文自体は、抗原抗体反応の概念に基づいて、具体的な血清の凝集反応 agglutination reaction of blood serum を測定して、どのように保菌者を発見すればよいかを論じたものである。 使ったのは、Widal 反応 (Widal reaction) O 抗原とH 抗原である。 それから最高凝集値も出し、それを健常者と較べた。 

この部分、まだテクニカルな部分をつかんでいない。いい本を探して読もう。

中川、政信、上島、武, "「パラチフス」K菌健康保菌者の一例." 日本伝染病学会雑誌 13, no. 6 (1939): 733-51.

中川は名古屋市立城東病院の医学士。名古屋市立病院はもと隔離病舎、伝染病院。 「遠藤赤変性変異パラチフスA菌について」で名古屋帝大から博士号(昭和15年)

パラチフスK菌を持った中流階級の女性についての記述。