パウル・エールリヒという変人医学者

De Kruif, Paul, and 寿恵夫 秋元. 微生物の狩人. 岩波文庫. Vol. 青(33)-928-1-2,33-928-1-2: 岩波書店, 1980.
 
ポール・ド・クライフというアメリカの科学ジャーナリストが1926年に出版した書物 『微生物の狩人』Microbe Hunters は、おそらく歴史上最も売れた医学史の書物である。アメリカでは当時(おそらく)100万部の大ベストセラーとなり、日本語訳もすぐに刊行された。現在でも岩波文庫で読むことができる。私は本が何部売れたかを調べるツールを持っていないので見当がつかないのですが、これ以上売れた医学史の書物に心当たりがある方がいますか? 
 
ベストセラーになった本書だが、医学史の先生として言うと、本当は読んではいけない(笑)。だってあまりにも面白すぎるし、そして何の註もついていない。アメリカ人のジョークがほとんどですよと言われても、まったく驚かない。でも、実は、もちろん読んでいる(笑)今回も、パウル・エールリヒについての、おそらく本書で一番面白い章を読んだ。以下はド・クライフの書物のまとめ。もっと真面目な文献を読みたい方は、パウル・エールリヒ研究所に非常に充実したサイトがあり、彼の論文は非常にたくさんPDF化されているし、彼に関する文献に一発で到達できるので、そちらを参照されるとよい。サイトは以下の通り。
 
 
エールリヒは最強の変人である。おそらく多くの学者はこうなりたいだろうと思う。私自身も、かなりこうなりたい。少なくとも、こういう同僚がいると、大学は楽しいと心から思う。学部は別の学部でなければいやだけど(笑)
 
エールリヒはユダヤ人で、飲酒、喫煙、そして中年以降は炭酸水の愛好家だった。お酒は主にビールで、研究所の小使いと毎晩のみ、学者が尋ねていくとビールを飲んだ。タバコはシガー(葉巻)で、それを一日20本。シガーは研究所はもちろん、自宅のベッドでも吸っていた。部屋は世界中から集めた雑誌でいっぱいで、ネズミがそこで巣をつくっていた。雑誌を買いすぎ、高いシガーをたくさん吸い過ぎたせいで、いつも貧乏だった。高級な芸術や音楽や文学には何の興味もなく、安手の時代小説を読んでいた。人々は「夢想家先生」と呼んでいた。「じつに奇妙な、頭脳の働きのどこかが間違っているのではないかと思われるような、非科学的な妄想に捉われていた」という。
 
医学部に入って、非凡な学生ではあった。ラテン語を憶えるのが得意で、この能力は終生続いた。しかし、医学生としては最低だった。先生に言われたことをやらない。用語を憶えない。死体から薄片をつくれと言われると、それを色素で染めて喜んでいる。医者としては無力であり、無能であった。患者や病人を相手にしなくてよい「科学者」のポジションが医学教育の中に作られて本当に良かった。また、彼は無神論者であったので、人間神が必要であった。その役目は、ロベルト・コッホが担った。コッホが「発見」した結核菌は、コッホのもとで助手であったエールリヒも観察していたものであり、それを染める技術は、エールリヒが提供したものであった。
 
免疫について色々考えていたが、色付きの奇妙な図を次々と書いて、意味不明なことをしゃべりまくって悦に入るだけだった。なぜそんな説が成立するのか理解できない奇怪な説を唱えていた。学会で論破されると、帰りの電車で怒りまくって「あの男は恥知らずのアナグマだ!」と数分おきに大声で絶叫し、車掌ともめごとになった。しかし、大発見を次々と行い、数々の栄誉に輝き、1906年にはメチニコフとともにノーベル賞に輝いた。でも、そんなことはエールリヒにとってどうでもよかった。
 
1909年に梅毒を治療できる606号、いわゆるサルバルサンを発見した。世界中に衝撃と興奮が走った。人類を広範に深く侵していた疾病が治るようになったのである。1910年の学会で報告した時には、聴衆の拍手が永遠に続いて、講演時間がなくなってしまうほどだった。エールリヒもさすがにうれしかったらしい。しかし、この段階で彼は抜け殻になっていた。この発見を称して、7年間の血みどろの痛ましい年月のあと、幸福だったのは一瞬だけだったと言っているという。 
 
・・・ほら、面白すぎるでしょう?(笑) 
 
この変人に、日本の細菌学者が二人仕えている。志賀潔と秦佐八郎である。どちらも、献身的に仕え、無類の手先の正確さと長時間の仕事をやりぬいた。日本が上昇するときに、確かに必要な態度であった。しかし、別の仕方で独創的な研究をする態度を、大学や大学院は考えなければならない段階に入っている。