紫禁城の黄昏


必要はなかったけれども、『紫禁城の黄昏』を読む。『ラスト・エンペラー』の映画を観た時に買った岩波文庫。中国最後の皇帝であった宣統帝溥儀の「帝師」であったイギリス人、レジナルド・ジョンストンの回想記である。 

エピソードを一つ。朱なにがしという「帝師」がいた。中国の知識人であり官僚であり、皇帝の教師であった。彼は西欧文化を無用と信じていた保守派であったが、ジョンストンの尊敬を勝ち得ていた品格ある中国のインテリであった。儒教系の知識人の常として、漢方医学に詳しく、医学と治療を趣味としており、帝師でありながら宮廷医師団の一人も兼ねていた。(雅子さまの医師が同時に和歌の先生でもある状況を想像するといい。)朱先生は、医師として、皇帝が激しい肉体的運動をするべきではないと信じていた。一つは、皇帝は常に荘重な威厳をもった姿勢をしているべきであるという信念、もう一つが、若いうちに激しい運動をすると、個人に与えられた有限の生命力(「元気」)を消費してしまい、若いうちに衰弱が始まるという医学的な考えである。これに対して、ジョンストンは当時の西洋の医学理論で反論したが、のちに、「タイム」誌で「著名なアメリカの生物学者」が活動は老化を早くすると唱えているということを知り、実は朱先生の言うことが正しかったのだろうかと書いている。まあ、この部分はユーモアを含ませている部分だと思うけれども。で、この「アメリカの生物学者」って誰だろう? 

書くのはあまり気が進まないけれども一応書いておくと、この岩波文庫版は日本と中国の歴史認識の問題をめぐる論争に巻き込まれていて、保守派の論客の渡部昇一が別の訳を用意していることを知った。というか、この岩波文庫の翻訳と解説自体が、その論争での旗色を明確にすることを目標にした論争になっている。翻訳者たちの「解説」では、著者のジョンストンが無能で軽蔑するべき人物であり、この書物の内容が幻想を紡いだものであることが連呼されていて、文庫の解説としては確かに強烈な違和感があるが、不必要に闘争的な物言いと論の運びに目をつぶれば、リサーチといい理論的な道具立てといい、とても優れた文章だと思う。そうはいっても、この訳業の根本目的が「闘争」だったのだから、その部分に目をつぶれというのも無理な話だろうだけれども(笑) 

この書物より、坂本龍一が音楽を書いて、ジョン・ローンピーター・オトゥールが出演したベルトリッチの映画『ラスト・エンペラー』の方が、ずっと楽しくて、しかも深みがある作品であることは間違いない。くだんの映画が歴史的に精確かどうかは知らないし、正直、映画について歴史的に精確であるかどうかにめくじらを立てることが意味があるのかどうか、私にはピンとこない。

画像は映画『ラスト・エンペラー』より、ジョンストンを演じたオトゥール。