歌舞伎と高時と外郎売

7月の歌舞伎公演は、「高時」と「外郎売」という医学史の重要な作品が入っている豪華なものである。「高時」は、もともとは『太平記』の序盤で登場する愚かな執権である北条高時のストーリーで、高時が酒を飲んでいる時に多くの芸人が現れ、歌を歌いながら踊るのに参加したが、実はこれが天狗などの怪物たちであったという話。それを1884年河竹黙阿弥が歌舞伎の作品として作ったものである。天狗たちがそとからやってくる動きと、酒飲みで愚かな執権の愚行が重なっている話である。外国向けのポスターが使っているのはこの作品をもとにした浮世絵です。
 
外郎売」は、もともとは陳宗敬という中国の元朝の外交官がおり、外交官を「外郎」といい、彼が明が成立する時に日本に亡命して薬を売り、その薬が「外郎」といわれたとのこと。これは14世紀から15世紀のことである。それが小田原で売られるようになり、江戸時代の1718年に歌舞伎役者である二代目団十郎が薬のお礼を申し上げるために「外郎売」という作品を作ったとのこと。
 

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もう一度ポスターです(笑)

17世紀の博物誌の挿絵の利用

 

publicdomainreview.org

 

17世紀の芸術は多様な用いられ方をする。美しいバラが「死」の象徴になる vanitas という趣向で有名なのがベルギーの画家の ヤン・ファン・ケッセルである。今朝の Public Domain Review に、ヴァン・ケッセルがバラだけでなく多くの博物誌の挿絵を面白い仕方で利用しているという記事。知りませんでした!(笑)

「文理連接プロジェクト」と社会科学と公衆衛生の関係

慶應義塾大学・日吉キャンパス・教養研究センターが開催する新しいプロジェクトである「文理連接プロジェクト 医学史と生命科学論」が第一回、第二回と研究講演を終了することができました。ご協力ありがとうございます。4月に開催した第一回の講演については講演内容が掲載され、5月に開催した第二回の講演も、じきに掲載されます。
 
6月25日には、第三回の講演会が行われます。これは、松蔭大学の松浦広明先生が "Pursuing Global Health: Where Medicine Meets Social Science, Humanities, and Engineering" という講演を行い、私が "Psychiatry and Transboundary Anxiety in Modern Japan" という講演をする予定です。ヨーク大学の歴史学部の助言に基づいた構成であり、ウェルカム財団とWHOの資金に基づいたものです。ヨーク大学からはこの領域での指導者である Sanjoy Bhattacharya 先生がいらして、司会をしてくださいます。
 
第三回の講演会の軸は、社会科学と医学・医療・疾病を組み合わせるとどうなるかという議論になります。社会科学と公衆衛生を結ぶプロジェクトは、日本で大きく発展しているものではありません。英語での学術論文でいうと、医学史や生命科学論などの人文系と同様に、パフォーマンスが低いです。それを学ぼうとしたら、アメリカかイギリスの大学に行くことしか方法がありません。日本における社会科学と公衆衛生の連結の状況は、中国はもちろん、韓国や台湾よりも大きく遅れている状態です。慶應日吉の教養研究センターにおいても、多様な文理連接プロジェクトの中で、その社会科学の議論も組み立てていこうと思っています。松浦先生は、慶應経済を卒業後、シカゴとハーヴァードで学び、ケンブリッジで講師となってから帰国した俊英です。ご講演を楽しみにしてください! 
 
「文理連接プロジェクト 医学史と生命科学論」、2019年度は、秋学期の第4回も社会科学(経済学)と医療、第5回は文学と医療、第6回は歴史学と身体という形で人文社会科学 (Humanities and Social Sciences) の視点で医学・医療と生命科学を検討するという形になります。すぐに具体的な内容をお知らせします。よろしくお願いいたします。
 

lib-arts.hc.keio.ac.jp

 

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ウェルカム財団、WHO、ヨーク大学と協力して行う社会科学と国際公衆衛生のポスターです。
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ホフマン「隠者セラーピオン」

Hoffmann, E. T. A. and 甫. 深田 ホフマン全集, 創土社. この4-1にあたる。

E.T.A. ホフマンという作家は1819年から1821年までに刊行した4巻本がある。その少し前から書かれていたものと、ほぼその時期に書いた作品である。ホフマンは1822年に46歳で梅毒で死亡するから、その晩年期といってもよい。アルコール中毒もあり、どの程度まで梅毒が影響を与えたかはよくわからない。
 
仕事の関係では「隠者セラーピオン」という冒頭の短編小説を読むことが大切。これはある知識人が発狂して、自分を古代から中世の聖人であると思い込んで、森の中で一人で生活をしているという設定である。作品の完成には、ホフマン自身が当時のヨーロッパで大きな話題となっていた精神医学の書物を読み、知人である精神科の医師にも相談をしているとのこと。
 
それだけ読んで返すはずであったが、スウェーデンの銅鉱山の事故を主題にした作品も掲載されている。1719年に巨大な事故があったとのこと。これをじっくり読むことはできなかったです(涙) 
 

歴史と記憶と精神医療の症例誌

Le Goff, J. (1992). History and memory, Columbia University Press.
Le Goff, J. and 孝. 立川 (2011). 歴史と記憶, 法政大学出版局.
 
精神医療において症例誌を用いることの大きなメリットが二つある。一つは歴史学が持つ客観性を高め、過去の人々の精神医療の経験をより全体的に再構成できることである。もう一つは、ヨーロッパやアメリカと比較する確かな枠組みを持つことである。
 
客観性について言うときに、歴史と記憶の問題に取り組まなければならない。ジャック・ル・ゴフは『歴史と記憶』の中で両者のあるべき関係についてこのように言っている。<近年のナイーブな傾向は、この両者をほとんど同一のものとみなし、さらには歴史よりも記憶のほうを、ある意味で、重視している。つまり、記憶は歴史よりもずっと本物であり「真」であるが、歴史は人為的なものであり、とりわけ記憶の操作により成るものである。しかし、記憶は、心的なものであれ、口承であれ、書かれたものであれ、歴史化にとっての材料の生贄である。記憶のはたらきは、多くの場合、無意識的なものであるから、実際、歴史学それ自身よりもいっそう時代や社会の操作に規制される危険が大きい。これに対して歴史学の方は、記憶をより豊かなものにし、個人や社会が生きている記憶と忘却の大いなる弁証法的なプロセスの中に戻っていく。こうした記憶と忘却を理解し、それらを志向可能な素材に作り変え、それを知の対象にすること、そこに歴史家の役割がある。記憶を特権視することは、時間の荒波の中に呑み込まれることなのだ>。
 
私が論じようとしているのは20世紀の前半、主として1930年代と40年代の精神医療の歴史である。そこで記憶だけが重要であるとか、記憶を口承で復活させるオーラル・ヒストリーが重要であるというようなことには、私は賛成しない。精神病院に関しては、書かれた資料が非常に数多く残っている。その書かれた資料を見るように努力するべきである。
 
比較史の視点については、私が制度的に日本史の研究者ではなく医学史の研究者であることも大きくかかわっている。私は欧米の精神医療の歴史と強く関連させて日本の精神医療の歴史を研究している。そのため、デメリットとしては日本の他の事例については表面的な知識しか持っていないが、メリットとしては、欧米の精神医療の歴史については専門的な知識を持っていることである。しかし、それよりも重要なことは、症例誌が持つ世界に関する全体性と、患者個人に関する症例誌の個別性である。どの国の症例誌には何がどのように書かれているのかという世界全体にかかわる問いが一方にあり、もう一方にはどの患者がどれほど個別的なものなのかという問いがある。ル・ゴフの言葉を借りると、<一面では規則性を見定め、他面においては偶然と合理性の相互作用に注意をする>となる。

田中先生からご著書を頂きました!

京都大学の田中祐理子先生から『病む、生きる、身体の歴史』(青土社、2019)を頂きました。解剖学と血液循環論、顕微鏡の利用、19世紀と20世紀の比較など、時代的にも主題的にも非常に豊かな内容を持つご自身の論集です。フランスの歴史と哲学と科学論の伝統を継ぐ、新しい学者の登場です。ありがとうございます。本棚に置き、何かのきっかけがあったときに読ませていただきます!

 

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田中先生の書物です!